第二十四話 組手

周囲は木々に囲まれており、つい先ほどまで歩いてきた住宅街の景色が、嘘のように遠のいていた。


まるで、現実から一歩踏み外し、絵本の頁の向こう側に迷い込んだような感覚。


門をくぐると──


白い砂利道がまっすぐに伸び、玄関の扉まではおよそ三十メートル。

左右には芝の庭が広がり、手入れの行き届いた緑が静かに揺れていた。


四人は、その道を並んで歩く。


美鈴みすずさんと組手?」


屍々子ししこが、美鈴へ視線を向ける。


籠女かごめは即座に頷いた。


「せやで。美鈴さんだけやなくてな、ここの屋敷におるメイドさんらは、みんな組手できるんよ」


さらりと言ってのけるが、その内容は穏やかではない。


「その中でもな。アンタと戦闘スタイルが一番似とるんが、美鈴さんや。せやから、相手としてはちょうどええ」


「ふーん……」


屍々子は短く返し、前へ視線を戻した。


籠女は屍々子を横目で見て、にやりと笑った。


「ま、"最強"名乗るんなら避けて通れへんやろ。第一歩や、第一歩」


そうこうしているうちに、屋敷の入口へ辿り着いた。

先頭に立つミズトが歩みを止めると、それに倣って他三人の足も揃う。


ミズトは振り返らず、背中越しに名を呼んだ。


「美鈴」


そのすぐ後ろに控えていた美鈴が、即座に反応する。

屍々子と籠女の前を横切るように一歩踏み出し、迷いのない動きで入口へ向かった。


重厚な扉に手をかけ、静かに押し開く。

扉の開く音ひとつ取っても、不思議と品がある。


ミズトは振り返り、屍々子と籠女に告げた。


「これからメイドたちに、君たちの昼食を用意させるから、このままダイニングルームへ行くといい」


籠女の表情が、一気に明るくなる。


「ほんまに!? ミズトさん、ありがとう!」


そのままの勢いで、続けて尋ねた。


「ミズトさんは、一緒に食べへんの?」


ミズトは入口の方へ身体を向けながら、淡々と答える。


「これから所用があるんだ。すまないが、二人で食事を楽しんでくれ」


それだけ言い残し、ミズトは玄関の奥へと姿を消した。


「どうぞ。中へ」


美鈴の短い案内に従い、屍々子と籠女は屋敷の中へ足を踏み入れた。


それから先の流れは、あまりにも自然だった。

席へ通され、料理が運ばれ、会話の合間に皿が空いていく。


ミズト邸での食事は、味も量も申し分ない。

一品ごとに手が止まらず、時間の感覚だけが、静かに曖昧になっていった。


気づけば、テーブルの上はすっかり片づけられている。

食後の余韻だけが、まだ身体の奥に残っていた。


そして、そのまま流れるように──

屍々子は、特訓へ移ることになっていた。


屋敷の玄関を出ると、足元には白い砂利道。

その両脇に、手入れの行き届いた芝が静かに広がっている。


屍々子たちはそのまま右手側へと進んでいく。


視界に収まりきらないほどの広さだが、不思議と主張は強くない。

ここではそれが「当たり前」であるかのようだった。


少し歩いた先で、籠女がぽつりと口にする。


「屍々子めっちゃ食っとったな」


籠女が、どこか感心したように口にする。


「まぁでも、ここのメイドさんが作るご飯、めっちゃ美味いからなぁ」


屍々子は歩きながら、正直に答えた。

 

「自分でもびっくりした。あのクッソ柔らかい肉……ヤバかった」


語彙が追いつかないのを、自覚しながらの一言だった。


それを聞いて、籠女はいつもの調子で笑う。


「あの肉、美味かったやろ?

あれな、ボンクラドラゴンと大アホノヌシの肉なんよな? 美鈴さん」


屍々子は、その名前の時点で突っ込むべきか迷った。

だが、口を開くより先に、美鈴が淡々と応じる。

 

「はい」


屍々子は思わず、美鈴を見た。


──「はい」ってなに?


その視線を受け止めたまま、美鈴は淡々と続ける。

 

「嘘です」


籠女が間髪入れずに言い切った。

 

「ちゃう。ホンマや」


屍々子が即座に返す。


「なんなのお前ら」


そんなやり取りを交えながら歩いていると、籠女が足を止めた。


「ここやな」


そこだけ、芝の色が違っていた。


周囲よりも均され、踏み固められた地面。

意図して作られた空間であることが、一目で分かる。


今も定期的に手入れされているのだろう、無駄がない。


籠女は、懐かしそうに呟く。


「ウチが子供の頃な、ここでオトンとか、メイドさんによぉ組手してもろてたんよ」


屍々子は、その空間を見渡しながら尋ねた。


「……子供の頃って、その時からミズトさんと知り合いなんだ?」

 

「うん」


籠女は頷く。


「ミズトさんとオトンは、ウチが産まれる前からの親友やで」


その言葉に、屍々子はふと思い出す。


「……そういえば、お父さん預かってもらってるって」


籠女は屋敷の方へ視線を向けたまま、静かに答えた。

 

「ああ。ここで、ずっと寝とるよ」


少しだけ言葉を切る。


「……五年前から。ちょっと、事故あってからな」


屍々子は、それ以上は聞かなかった。

家族の痛みは、理解わかるから。


籠女は、先ほどの話題などなかったかのように、空気を切り替えた。


「さて、と……」


そう呟いてから、美鈴へ視線を向ける。


「美鈴さんは、あっち側に立ってもろて──」


短く指示を出し、籠女は二人の立ち位置を指で示した。

それぞれが、指定された位置へ移動する


屍々子の正面、約五メートル先に美鈴が立つ。


美鈴の表情は、いつもと変わらず"無"だった。

感情の起伏は読み取れない。だが、不思議と冷たさはない。


籠女は屍々子の少し後方、邪魔にならない位置に立ち、様子をうかがっている。


「屍々子。耳の具合はどうや?」


屍々子は、美鈴から視線を逸らさないまま答えた。


「ん、飯食ったら治った」


籠女は、ふっと小さく笑う。


「ルールとかは設けてないんやけどな。とりあえず──」


一拍置き、言い切る。


「──殺す気で行けや」


屍々子は思わず籠女を振り返った。


「は!? 殺す気って……」


「ほれ──」


籠女の声が重なる。


「何をよそ見しとんねん。相手は待ってくれへんで」


冗談の色は一切ない。

その視線が、すべてを物語っていた。


直後──芝を強く踏み込む音。


───タッ。


音の圧に反射的に顔を向けた瞬間、視界を埋める影。


顔のすぐ前に──足。

風圧が、遅れて叩きつけられる。


──やば……。


屍々子は咄嗟に身体を沈めた。

紙一重で、美鈴の右足の蹴りが頭上を通過する。


ブン──と空気を裂く音。


屍々子は視線を跳ね上げる。

その先で、美鈴と目が合った。


黒い瞳はすでに、完全に屍々子を捉えている。


次の動きが来る前に、屍々子はそのまま踏み込んだ。

低い体勢のまま、美鈴の懐へ縫い入る。


──ここなら。


右の拳を腹部へ叩き込む。


───タシュッ。


手応えは、ない。


屍々子の拳は届かなかった。

美鈴の左手が、すでにその手首を掴んでいた。


「……っな!?」


そのまま、美鈴は屍々子の手首ごと、自身の腕を反時計回りに動かす。


理解が追いつくより早く、視界が反転する。


───ダン!


背中から、地面に叩きつけられる。

衝撃が肺を打ち、息が詰まる。


「……かはッ」


美鈴は、屍々子の右手首を掴んだまま、無言で見下ろしていた。

視線だけが、静かに落ちてくる。


その様子を横から眺めながら、籠女が口を開く。


「ほな。殺す気で行け言うたやろ」


屍々子は地面に背を打ちつけられたまま、手首を取られた状態で視線だけを向ける。


「無茶言うなよ。けど別に手抜いてたわけじゃない」


ふ、と籠女が息を漏らす。


「ああ、言い忘れとったわ」


軽い調子のまま、続けた。


「妖気、出してええで。

ミズトさんも、もう知っとるしな。

どのみち、今日話すつもりやったし」


屍々子の眉が跳ね上がる。


「それ……先に言えよ──!」


言葉が終わるより早く、右手から妖気が溢れ出した。

圧縮された空気が、手のひらの内側で一気に膨れ上がる。


───ボンッ。


爆ぜた反動が、美鈴の指を弾いた。

掴まれていた屍々子の右手首が、ようやく解放される。


その瞬間を逃さず、屍々子は身体を大きく反らせた。

両の手のひらを頭上側の地面へ突き、流れるように体勢をつなぐ。


間髪入れず、右手に残していた空気圧を解放。


反動が身体を押し上げ、屍々子の身体はバネのように後方へ跳ねた。


距離を取りながら、軽やかに地面へ着地する。


だが、息を整える間もない。


風を裂く音とともに、美鈴が一気に距離を詰めてくる。


───タンッ。


芝を叩く音が、近い。

一瞬で間合いが潰され、美鈴の拳が屍々子へ向かって伸びた。


その時、屍々子の内側で"何か"が弾けた。


視界ではない。音でもない。

張り巡らせた糸の一本に、誰かが指先で触れたような──そんな微細で確かな違和感。


初めての感覚ではない。一度経験したような感覚。


それは──空気の流れ。


廃神社で感じた、あの感覚。

姿の見えない相手を"視た"ときの、あのざらつくような気配。


その感覚は、昨日よりも鮮明に頭に入ってくる。


美鈴のこの一手が迫る先は──



──アタシの右顔面ッ。



瞬間、屍々子は右足を引いた。

腰を落とし、重心をわずかにずらす。


拳が、頬を掠める寸前で空を切る。


その"逸れ"を、逃さない。


圧縮された空気が、屍々子の拳中で臨界を越える。

解き放たれた瞬間、衝撃は咆哮となって炸裂した。



───ドンッ!



踏み込みと同時に放たれたカウンターが、美鈴の顔面を正確に捉えた。




──蕾が、開き始める──

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