第二十三話 厄介な名前

昼下がりの時間帯を過ぎ、カフェの喧騒はゆるやかにほどけ始めていた。

満席だった店内にも、ぽつぽつと空席が目立ち始め、昼の熱気は甘い香りとともに沈殿している。


入口から数歩進むと、右手にカウンターがある。

ここで淹れられるコーヒーは、この店の顔だった。


豆の扱いも、抽出も一切の妥協がない。

コーヒー以外のメニューも例外ではなく、どれも「人気店」の名に恥じない完成度を誇っている。


席数は多く、左手には小さなソファ席やカウンター席が並ぶ。

中央へ進めば、奥行きを持たせたゆったりとしたソファ席がいくつも配置されている。


その中央のソファ席──

一番左奥に、深紅の髪を高く結い上げた女が腰を落ち着けていた。


赤と金の鋭利な金具で留められたツインテールが背中に流れ落ち、黒いパーカーの背には、白蛇が静かにとぐろを巻いている。


袖から覗くのは、指先だけ。

右肘をテーブルに預け、片手でスマートフォンを弄りながら、気だるげに視線を落としていた。


テーブルの上には、食べ終えたパフェの器がひとつ。

すでに満たされた甘さだけが、余韻として残っている。


そのもとへ、一人の男が歩み寄ってきた。


気配を察した女は、スマホから目を離さないまま、口角を下げた。

指先の動きも止めず、視線だけをちらりと持ち上げる。


「ねえ、美門みかど。遅っそい!」


美門は、わずかに眉を下げると、軽く顔の前で手を合わせた。


緋叉欺ひさぎちゃん、ごめんね。今日のノルマが、ちょっとだけ手強くてさ」


軽い調子の謝罪。

だが、その声には妙な重みがあった。


理屈ではなく、響きそのものが人を納得させてしまう。

知性と余裕が、意識せずとも滲み出ている声色だった。


その男の名は──美門みかど


漆黒の髪は、前髪を緩やかに流すよう整えられ、両脇は耳に掛けてすっきりと見せている。


その一方で、首筋には長めの毛先が残され、静かな動きに合わせてわずかに揺れていた。


淡い緑の瞳は柔らかな光を宿し、整いすぎているほど均整の取れた顔立ち。


美門という名に違わぬ──いや、名が顔に引き寄せられたかのような容貌だった。


紺地に黒のストライプが走るスーツ。白いシャツに赤いネクタイ。

そのネクタイには、白蛇がとぐろを巻く意匠がさりげなく織り込まれている。


右手首には高級そうな腕時計。足元の黒革靴にも、隙はない。

 

緋叉欺は、しばらく無言のまま美門を見つめていた。

値踏みするような視線。だが、その口元がわずかに緩む。


「それ、ほんとに悪いって思ってるならぁ…」


緋叉欺は、少しだけ間を置いてから視線を落とす。

テーブルの上──食べ終えたパフェの器。


それを、指先でとん、と軽く示した。


「これ、買ってきて。美門の奢りで」


命令とも冗談ともつかない声音。

拒否される前提など、最初から存在していない。


美門は一瞬だけ言葉に詰まり、それから肩をすくめるように笑った。


「てか、緋叉欺ちゃん。爪変えた?」


話題を意図的に逸らす。

その視線は、さりげなく指先へ落ちていた。


「前よりすごい可愛くなってるじゃん」


緋叉欺はそれを即座に見抜いたように、左腕で少しだけ身を乗り出した。


「何、話すり替えてんの? 早く注文してきて」


言われなくても可愛いのは当然だ、と言外に告げる態度。

美門は小さく息を吐き、苦笑混じりに頷いた。


「あはは……。うん」


美門は踵を返し、カウンターの方へ向かって歩き出す。

その背中を、緋叉欺は満足そうに見送った。



しばらくして、戻ってきた美門の手には、黒いトレー。

その上には、新しいパフェと自分用のコーヒーが載っていた。


トレーを静かにテーブルへ置き、緋叉欺の前にパフェとスプーンを丁寧に並べる。

そして向かいの席へ腰を下ろした。


緋叉欺はそれを一瞥いちべつし、さらっと一言。


「はーい、ありがと」


美門はコーヒーに手を伸ばしながら、本題へ入った。


「それで? 話って、れいももが昨日から姿を消してる件?」


緋叉欺はパフェを一口すくい、そのまま口に運ぶ。


「それじゃない」


甘さを噛みしめるように、ひと呼吸置いてから続けた。


「むっとんから連絡が来たんだけど──」


咀嚼を終え、言葉を飲み込む。


「──零と百が回収するはずだった分の"因喰いんじき"、見つかったって」


美門の眉が、わずかに寄る。


「……見つかった? どこかに落ちてたってこと?」


緋叉欺は答えず、テーブルの上に伏せていたスマホに指を伸ばした。

長い赤の爪が、ガラスの表面をなぞる。


「んーとね……」


画面を操作し、無兎むとから届いたメッセージを開く。

そのまま、指先で軽く弾くようにして、美門の方へ滑らせた。


「……これ、見て」


美門は画面に視線を落とし、そこに並ぶ文字を小さく読み上げる。


「……"実験体05の因喰は、ミズトの関係者が所持している"……」


顔を上げる。


「ミズトって……あの、ミズト?」


その瞬間、緋叉欺は素早くスマホを引き寄せた。


「むっとんが言うなら、本当なんでしょ」


短い沈黙。


緋叉欺はスプーンをパフェに戻し、声の温度を落とした。


「私らってさ、因喰の回収に失敗したこと、ないじゃん?

しかも……よりによって、零と百がだよ?」


視線を上げずに続ける。

その声音から、甘さは完全に消えていた。


「……ミズトたちに殺された以外、考えらんない」


低く落とされたその一言が、テーブルの上に沈んだ。


美門はすぐには返さず、コーヒーを一口含んでから視線を上げる。


阿巳蛇あみださんは、この件知ってるの?」


「連絡つかない」


緋叉欺は即答した。


「でも、あー様はこういう異変にはすぐ気づくと思う」


美門はカップを置き、指先で縁をなぞる。


「……ミズトが絡んでるとなると、少し動き方を考えないとね」


緋叉欺はスプーンを止め、視線だけを美門に向けた。


「ミズトには、"時が来るまで"手を出すなって……あー様は言ってるからね。

だから、むっとんは情報くれたんだと思う」


言葉を切り、少し間を置く。


「でもさ、美門。一つ気になることがある」


「ん? なに?」


緋叉欺は視線を外さず、淡々と続けた。


「実験体05が因喰を持ってるって、なんでミズト側が知ってるんだろって。

私たち以外に、因喰を感知することは無理なのに」


美門は即答しなかった。

カップの縁に口をつけ、短く息を整える。


「確かにね……。でも、ミズトだから……」


根拠はない。

だが、その一言だけで、場の空気が静かに冷えた。


それほどに、その名は厄介だった。


美門は椅子の背に身体を預け、淡々と告げる。


「あまり時間はかけられないね。ミズトに限らず、もたもたしてたら──」


視線が、鋭くなる。


「──"いぬ"にも目をつけられかねない」


その瞳に、さっきまでの柔らかさは残っていなかった。


その空気を裂くように、緋叉欺が口を開く。


「ねぇ美門。喉、渇いた」


待たせたことへの不満を、冗談に包む気配はない。

美門は一瞬だけ苦笑し、肩をすくめた。


「あはは……。ちょっと、待っててね」


立ち上がる背中には、まだ続く代償を悟った諦めが滲んでいた。



♦︎



その一方で、骸南区がいなんく・七番街の外れ。

人通りの途絶えた通りの先に、その屋敷はあった。


高い塀に囲まれ、敷地の奥行きは外からは測れない。

建物自体も大きいが、それ以上に、周囲の空気が違う。


近づくほどに、街の気配が遠のいていくような感覚があった。


その門前に、四つの影が並ぶ。


屍々子ししこ! めっちゃデカいやろ? ミズトさんの家」


籠女かごめは、自分の家でもないというのに、妙に誇らしげだ。


あなたの住んでるマンションも十分すごいけど。

そう心の中で突っ込みつつ、屍々子は視線を屋敷へ戻す。


「……い、いいなー」


思いつく言葉がそれしかなく、我ながら棒読みになったのが分かる。


その様子を見て、籠女はすぐさまミズトの方を向く。


「なんやこの子、歩いて疲れてもうてるみたいでな。

ほんまは走り回りたくてしゃーない言うとったんよ。一秒前まで」


話を盛られている気がするが、否定する間もない。


ミズトはそれを聞いて、くすりと微笑んだ。

そして、半歩後ろに控えていた美鈴みすずへ視線を送る。


「美鈴……頼むね」


短い言葉だったが、それだけで十分だった。


美鈴は無言で頷き、素早く門へ歩み寄る。

重厚な扉が静かに開かれ、内側の敷地が姿を現した。


美鈴は身体をこちらへ向け、感情の揺れを一切感じさせない声で告げる。


「どうぞ……お入りください」


門をくぐりながら、籠女は屍々子の方へ身を寄せた。


「あ、二段階目の特訓やけどな──」


そこで、にこりと笑う。


「──美鈴さんと、組手や」


屍々子は、ほんの少しだけ胸の奥が騒ぐのを感じた。




──芽生えは、これから──

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