第二十二話 ミズトさん

「どこの"誰から"、お使いを頼まれたのかな?」

 

声は低く、穏やかだった。

咎めるでもなく、威圧するでもない。

 

世間話の続きを促すような、あまりに自然な問い。

 

なのに。

 

言葉が落ちた瞬間、場の空気が静かに沈んだ。

 

無兎むとは、肌でそれを感じ取る。

 

見下ろされている。

物理的な高さではない。

 

思考も、選択肢も、すでに上から眺められているような感覚。

抗おうとした意志そのものが、最初から織り込み済みだと知らされる圧。

 

無兎は一瞬、

ミズトの背後に控えるメイド──美鈴みすずと目が合った。

 

黒い瞳。

 

光を映しているはずなのに、奥に何も残らない。

感情がないのではない。

 

"感情という概念が最初から与えられていない"──そんな目。

 

無兎はすぐに視線を外し、かぶらへ向けた。

 

「……鏑。行くよ」

 

その言葉に合わせるように、右目の妖気が、スッと閉じる。

 

鏑は表情を変えない。いつもの軽薄な笑みも消え、素直に応じた。

 

「ああ……」

 

そのまま、屍々子ししこに跨っていた身体を離し、すっと立ち上がる。

 

「おい、姉ちゃんよお。……また今度、続きろうぜ」

 

言いながら、屍々子の手首を掴み、半ば強引に引き起こす。

 

屍々子はキョトンと目を瞬かせたまま、その流れに身を任せた。

 

「え……あ、うん」

 

鏑はそれ以上何も言わず、背を向けて歩いていく。

 

 

ミズトは、その背中を目で追っていた。

 

とぐろを巻く白蛇の刺青。

 

視線は、そこに留まったまま動かない。じっと、何かを量るように。

 


無兎は、去り際にもう一度だけ美鈴を見た。


視線が、重なる。


黒い瞳は相変わらず澄んでいる。

光を映しているはずなのに、その奥には何も残らない。


「……ちッ」


無兎は短く舌打ちし、それ以上は何も言わなかった。

振り返ることもなく、その場を後にする。



♦︎



無兎と鏑が去ったあと、張りつめていた空気が、ようやくほどけ始めた。


ミズトは周囲を見渡し、倒れている人々のもとへ向かう。

静かな手つきで容体を確かめ、必要な処置を施していく。


美鈴もまた、無言のまま別の負傷者のもとへ歩み寄った。

その動きに、迷いは一切ない。



籠女かごめは鳥籠を手のひらへ収めると、そのまま屍々子へ駆け寄った。


「屍々子! 怪我は!?」


屍々子は制服についた土や小石を軽く払い落としながら、気楽な調子で答える。


「あぁ、大丈夫。……ちょっと耳が聞こえにくいくらいかな」


その言葉に、籠女の表情がはっきりと緩んだ。

肩に入っていた力が抜け、小さく息を吐く。


「アンタ……無茶しすぎやろ。耳聞こえんくなったらどないすんねん」


そう言われて、屍々子は籠女の顔を見る。


昨日、零に付けられた傷。

それに加えて、黒鳥に引き裂かれた新しい傷が、首筋や腕に痛々しく残っていた。


屍々子はそれを一瞥し、ふっと短く息を吐く。


「……だって」


言葉は、すぐには続かなかった。



屍々子は、胸の奥で決意を静かに紡ぐ。


籠女が、れいももを相手に、たった一人で立ち続けていた姿。


そして──もう二度と会えないと諦めていた存在に、この世界なら再び辿り着けるかもしれないと知った瞬間。


これから先、また何かを失うかもしれない。


それでもこの怪異界で、自分の足で立ち、自分の力で切り拓けるのなら。


その全てを、屍々子は胸の内で噛みしめていた。


「多少無理してでも、アタシが動かなきゃって……そう思ったから」


視線を落とし、なおも妖気をまとったままの右手を見る。

白い揺らぎが、まだ微かに脈打っている。


「この力で抗えるなら──」


そして、真っ直ぐ籠女を見つめる。


「──本当に失いたくないものは、絶対に守るって」


その声音に、気負いも虚勢もなかった。

覚悟だけが、静かに宿っていた。


籠女はしばらく黙って屍々子を見つめる。

それから目を細めて、冗談めかした調子で笑った。


「ほーん? ほんならウチはずっとお姫様やっててええか?

ウチ、王子様に助けられたいねん」


その言葉に、屍々子は思わず想像してしまう。


──籠女がお姫様か……。


王子様に遠慮なく物を言い、気づけば毎晩、王子様が泣かされている光景が浮かぶ。


──絶対に尻に敷くな、こりゃ。


その微妙な沈黙を、籠女は見逃さなかった。


「アンタ……なんや余計な想像しとるやろ……」


「………いや? 何も」


あまりに素っ気ない返答に、籠女はジトっと屍々子を見た。


そんなやり取りの最中、背後から足音が近づいた。

振り返ると、ミズトが歩み寄ってきている。

その半歩後ろには、美鈴の姿。


「籠女。気付くのが遅くなってすまなかったね。

私が、もう少し早く察していれば……」


どこか申し訳なさそうに告げるその声には、先ほどまでの圧はない。

むしろ、不思議なほど穏やかで、聞く者の心を落ち着かせる響きだった。


「なんでミズトさんが謝るねん」


籠女は首を振り、少し照れたように続ける。


「そもそも、ウチが寝坊したんが原因やし──」


その表情は、普段よりもどこか柔らかく、素直な喜びが滲んでいた。


籠女が話している間、屍々子はふと美鈴へ視線を向ける。

美鈴は、二人のやり取りを表情ひとつ変えずに見つめていた。


感情を映さないその瞳が、静かにそこに在るだけだった。


しばらくして、籠女が言葉を切った。


「──そんでな、ミズトさん……。あっ……」


そこでようやく、籠女は気づいたらしい。


籠女は屍々子へ振り向き、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんな、屍々子。待っとったよな」


「あ、いや。大丈夫──」


そう答えながら、屍々子は何気なくミズトへ視線を向けた。


その瞬間だった。


にこやかな表情は崩れていない。

だが、その奥──真紅の瞳だけが、こちらを正確に捉えていた。


探るように。

値踏みするように。

まるで、存在そのものを測るかのように。


息が、わずかに詰まる。

時間が伸びたように感じられ、視線を外すきっかけを失う。


──まずい。


理由は言葉にならない。

ただ、直感が告げていた。



「ミズトさん。紹介するわ──」



籠女の声が割り込んだ。


張りつめていた何かが、音もなくほどける。

屍々子は、ほんのわずかに息を吐いた。


ミズトは、何事もなかったように視線を外す。

先ほどまで"そこ"にあった圧も、綺麗に消えていた。


屍々子は表情を崩さない。

だが、胸の奥に残った違和感は消えなかった。


──何だったんだ、今の。


ミズトは変わらず穏やかに立っている。

美鈴も同じ位置のまま動かない。


その場にいる全員が、同じ光景を見ているはずなのに。


屍々子だけが、一瞬だけ"別のもの"を見せられた気がしていた。


思考がその一点をぐるぐると回り始めた、その時。


「ん? どないしたん?」


籠女の声が、現実へ引き戻す。


「ま、ミズトさんも美鈴さんも、ええ人やから。信頼してええで」


いつの間にか、紹介はすべて終わっていたらしい。


屍々子は一拍置いてから、軽く頭を下げた。


「……これから、いろいろお世話になるかもしれません。よろしくお願いします」


形式ばった挨拶。

だが、言葉を発した瞬間も、視線の端ではミズトの存在を捉え続けていた。


「こちらこそ。よろしくね、屍々子さん」


穏やかな声。

角の取れた笑み。


「ところで──」


その視線が、屍々子の右手へ落ちる。


「──その妖気……珍しい色をしているね」


心臓が、わずかに跳ねた。


──閉じていない。


気づいた時にはもう遅い。

白い妖気は、薄く、だが確かに立ち上ったままだった。


「あ……これは……」


言い淀む。

視線が、自然と逸れる。


その隙間に、籠女の声がまた割り込んだ。


「なんかようわからんけど、白い妖気のままなんよな?」


助け舟。

悪意の欠片もない、いつもの調子。


屍々子は小さく息を整え、視線をミズトへ戻す。


「あ、はい。なんか……そんな感じ、です」


それ以上、掘り下げさせないように。

言葉を切り、妖気をそっと引っ込めた。


ミズトは、追及しなかった。


「……なるほど」


短く頷き、それ以上は触れない。


「ここで立ち話もなんだし、私の家へ行こうか」


空気が、ふっと緩む。


「ミズトさんの家行くん、久々やから楽しみにしとったんよなあ」


籠女はぱっと表情を明るくし、屍々子の方を向いた。


「屍々子。ミズトさんの家、ヤバいからな?」


何がどうヤバいのかは、語られない。

だが、その声音に含まれるのは、警戒ではなく信頼だった。


屍々子は曖昧に笑い、頷く。


「……楽しみに、してます」


その言葉の裏で、胸の奥の違和感はまだ消えていなかった。


四人は言葉を交わしながら、ミズトの屋敷へと歩き出す。



♦︎



その一方で、住宅街の道路を歩く、紫のモヒカンと金髪。


「おい無兎お。よかったのか? あの金髪の──」


そこまで言った時、無兎が被せるように言った。


「──知らない」


それ以上は、何も聞きたくない。
そんな意思だけが、短い声に乗っていた。


鏑は一瞬だけ口を止めたが、すぐに続ける。


「ああ? だからよ。あの男の隣にいた金髪って──」


無兎は、ちらりと鏑を睨む。


「──鏑。……うるさい」


その一言で、鏑は言葉を切った。


わずかな沈黙のあと、気を取り直したように口を開く。


「そういやよお、今日の"回収"は後何体だっけか」


無兎は、淡々と答える。


「今日の分の"実験体"は、あと二人と一匹」


その言葉を聞いた瞬間、鏑の表情がぱっと明るくなった。


「ってことはよお! 早く終わらせたらよお!」


無兎は、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……映画、見よっか」


その一言で、鏑の空気が変わった。


「うおっしゃあああ!!
早くノルマ終わらせようぜええ!!」


「今回のストーリーはよお!! 前作のワン太郎が、パグに転生するらしいんだよなあ!!」




──闇の中にも、日常があった──

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