第二十一話 喧嘩がしたいなら
昼間の住宅地には、明らかに似合わない。
三つの眼を持つ黒い鳥の群れが、電柱、屋根、看板の縁──頭上を埋め尽くし、
その群れを従えるように、建物の上に立つ金髪の男──
右目の奥で、緑の妖気が静かに灯っていた。
その視線は二人を見下ろす。
それを、屍々子と籠女は真っ向から受け止める。
「「……だっる」」
重なった声に、無兎の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……今、なんて?」
それだけで、空気が張り詰める。
耳鳴りとは別の圧が、じわりと肌を撫でた。
その空気を、笑い声がぶち破る。
「無兎ぉ! お前の事が、ダルいんだとよお!」
だはははは、と下品な笑い。
屍々子と籠女の前方──
無兎は小さく舌打ちした。
「……鏑。
低く落とされた無兎の声に、刃のような冷えが混じる。
鏑はそれでも、笑ったままだった。
喉を鳴らし、腹の底から可笑しそうに。
「おいおいおいい! そりゃ勘弁しろってなあ!」
阿巳蛇。
その名が落ち、籠女は確信した。
この件で、糸を引いてるのは阿巳蛇だと。
耳鳴りはまだ止まらない。
だが、その向こう側で、籠女の視線だけが静かに研ぎ澄まされていく。
「……アンタら。阿巳蛇から何を指示されて動いとる」
その問いに、無兎と鏑は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。
そして、無兎の視線が籠女へ落ちる。
「君……。阿巳蛇さんの知り合い?」
淡々とした声。
だが、その奥に、はっきりとした圧が乗る。
「じゃあ、阿巳蛇さんに直接聞けば?」
空気が、さらに重く沈む。
「僕らの目的は、他人にコッチの事情を話す事じゃなくて……」
無兎の右目で、緑の妖気が揺らいだ。
「
その瞬間、鏑が腰を落とす。
「──
刹那──
黒鳥が一斉に鳴いた。
「ウポポポポポポポ!!」
屍々子と籠女は、反射的に耳を塞ぐ。
塞いでいるはずなのに、音は直接、鼓膜の奥を突き刺してきた。
思考が、削られる。
その音が始まった瞬間には、もう遅かった。
鏑は、すでに跳んでいた。
「だははははあ! 耳塞いでちゃあ戦えねえよなあ!」
圧倒的な質量が、一直線に迫る。
籠女は顔をしかめたまま、耳を塞いだ手を離さない。
代わりに、意識だけを首元へ叩きつける。
「那由他!」
呼応するように、鳥籠が翠の妖気を噴き上げた。
金属が軋む音とともに膨張し、白い手が幾本も弾けるように飛び出す。
狙いは鏑。
白い腕が、鏑の身体を絡め取ろうと空を裂く。
だが──遅い。
鏑の踏み込みが、白い手の隙間を一気に突き抜ける。
勢いそのまま、距離を潰す。
──アカン……まずッ──
思考が追いつく前に、影が迫る。
鏑は拳を振りかぶり、獣のように笑った。
「一丁あがりいい!!」
拳が、籠女の顔面へ届く──その寸前。
───パシュッ。
乾いた音。そして、籠女の視界に影。
その影は、鏑の拳を受け止めた──
───バゴォ!!!
閃光が炸裂し、空気が破裂した。
屍々子の拳が、鏑の左頬を正確に撃ち抜く一撃。
衝撃に身体が弾き飛ばされ、鏑は地面を削りながら転がっていく。
屍々子は拳を下げたまま、静かに立っていた。
右の拳から、白の妖気が溢れている。
そして、耳の奥──鼓膜の内側から、ぬるりと血が流れ落ちていた。
無兎は、その右手から目を離せずにいた。
──なんだ、あの妖気の色。
黒鳥の甲高い鳴き声が、なおも空気を切り裂く。
だが屍々子は、それを意に介さない。
屍々子は歩き出す。
倒れた鏑へ、真っ直ぐに詰めていく。
籠女は、咄嗟に屍々子を呼び止める。
「屍々子!! アカンで!!」
だが、返ってきたのは黒鳥の鳴き声だけだ。
無数の羽音と、耳を抉る異音に掻き消され、言葉は空気の中で潰れた。
白い妖気を見られた以上、何が起こるかわからない。
その予感だけが、胸の奥で嫌な音を立てていた。
屍々子は、歩みを止めない。
「おい、デカブツ──」
一歩。
また一歩。
距離が、詰まる。
その瞳は、完全に"獲物を見る目"だった。
「──喧嘩したいんだったら、早くそう言えよ」
鏑は地面を蹴って跳ね起きた。
口の端を裂くように、笑う。
「だはははは! いいパンチしてんなぁ、お前!」
肩を回し、血の滲む頬を気にも留めない。
「しかもよお! 面白え妖気してんなぁ!!」
鏑の笑い声が、まだ空気に残っている。
その隙を縫うように、籠女は意識を沈めた。
白い手を、もう一度──鏑へ。
だが。
高所から、ひとつ影が動く。
無兎の視線が、籠女を捉えた。
次の瞬間、羽音が爆ぜる。
黒い影が弾かれるように飛び、一直線に籠女へ殺到した。
「今、いいとこなんだからさ」
淡々とした声。
感情のない、軽い調子。
「……邪魔しないで」
言葉と同時に、黒鳥が群れを成して落ちてくる。
籠女の視界が、強引に黒で塗り潰された。
籠女は反射的に身を屈める。
迎撃も、防御も、間に合わない。
鏑の右拳が、屍々子の顔面を狙って走った。
速い。加えて、重い。
屍々子は一歩、前へ踏み出す。
身体をわずかに左へひねり、その拳の軌道から自分を外す──同時に、右手へ空気を圧縮する。
「寝とけっ!」
刹那。圧縮された空気が、解き放たれる。
───ボンッ。
反動に乗せた拳が、そのまま鏑の右頬へ叩き込まれた。
───ドゴォッ!!
鈍い衝撃音。
だが、鏑は倒れない。
右頬で拳を受け止めたまま、口角を歪める。
「……いいねえ!!──」
鏑はそのまま身体を低く構えた。
「──楽しいなあ!!」
次の瞬間、前へ踏み込む。
屍々子の懐へ、一直線。
鏑の右肩が、屍々子の胸元へ叩きつけられた。
「──が……あッ」
重量と速度を乗せた体当たり。
衝撃に、屍々子の身体は後方へ弾き飛ばされた。
背中から地面へ叩き落とされ、肺から息が抜ける。
だが、休む間は与えられない。
鏑の跳躍が迫る。
「だはははあ!! まだまだ遊ぼうやあ!!」
落下する屍々子へ覆いかぶさるように、拳を振り下ろす。
───ズダンッ!!
地面が砕ける音。
屍々子は、頭を紙一重で右へ振っていた。
拳は頬を掠め、土とアスファルトを抉る。
落下した屍々子の身体に、鏑の巨体が覆いかぶさった。
「うぉおおおい!! こっから死ぬんじゃねえぞお!!」
楽しげな叫びとは裏腹に、腹部へ叩きつけられる重量は凶器そのものだった。
肺が押し潰され、息が詰まる。背中は地面に押し付けられ、骨と骨の隙間にまで衝撃が食い込む。
逃げ場はない。
巨体に封じ込められ、わずかに身じろぐことすら許されなかった。
視界いっぱいに、振り上げられた拳。
続けざまに、叩き落とされる。
顔面に届く、その直前──
───パシュッ!
屍々子の右手が、鏑の拳を真正面から受け止めた。
衝撃が骨を伝って突き抜けるが、逃がさない。
そのまま、握り込む。
「アタシの上から──」
空気が、異様な密度で圧縮されていく。
掴んだ拳の奥で、圧が唸りを上げ、
「──どけろよ、デカブツ!!」
爆ぜた。
ッ ───ボンッ!!
至近距離で解き放たれた衝撃に、鏑の上体が強引に弾かれる。
腹にかかっていた重みが、急に抜けた。
──今だ。
屍々子は瞬時に察知し、右手のひらを地面へ叩きつけた。
圧縮した空気を再び解放し、その反動を上体へ叩き込む。
身体が跳ね上がる。
そのまま、額を前へ。
───ガンッ!
鈍い衝撃音が響き、鏑の顔面に屍々子の頭突きが叩き込まれた。
無兎は、その光景を見てわずかに口元を緩める。
「……鏑相手に、ここまでやるんだ」
感心とも揶揄ともつかない声だった。
その直後だ。
空を満たしていたはずの鳴き声が、唐突に途切れた。
まるで、世界そのものが息を止めたかのように。
無兎は眉をひそめ、周囲へ視線を走らせる。
「……どういうことだ? ウポーたちが……」
言葉の途中で、息を呑んだ。
つい先ほどまで、電線や屋根、空間の隙間にまで群れていた黒鳥が──
一羽残らず、消えていた。
屍々子も、鏑も、思わず動きを止める。
籠女の周囲を取り囲んでいた影も、いつの間にか跡形もない。
静寂が、異様なほど深く落ちる。
「……どういうことや」
籠女が呟き、視線を巡らせた、その先。
住宅地の奥、通りを隔てた向こう側に、二つの人影があった。
黒の紳士服に身を包んだ男。
そして、その半歩後ろには、金髪を整えたメイド服の女が控えている。
籠女は、息を詰めるように小さく呟いた。
「……ミズトさん……なんで」
男──ミズトは、歩みを止めない。
足音は静かで、周囲の空気だけが、彼に合わせて沈んでいく。
無兎と鏑へ視線を向けたまま、淡々と口を開いた。
「籠女が来るって聞いて、待っていたんだけどね」
声音は穏やかで、柔らかい。
だが、その場にいる誰もが、口を挟めない圧があった。
「なかなか姿を見せないから……少し、様子を見に来ただけだよ」
視線が、黒鳥の消えた空間をなぞる。
「それに──あれは、さすがに耳障りだった」
何でもないことのように、続けた。
「だから、鳥たちには消えてもらった」
説明はそれだけだった。
ミズトは一歩、さらに前へ出る。
赤い瞳が、無兎と鏑を順に捉える。
見定めるようでもあり、すでに答えを知っているようでもあった。
「ところで君たち」
静かな問いかけ。
「どこの"誰から"、お使いを頼まれたのかな?」
その声が落ちた瞬間、
場の空気は完全にミズトのものになった。
誰も、すぐには答えられなかった。
──支配は、下から──
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