第十六話 籠女先生
ここは、
あの廃神社から数キロ離れた、落ち着いた住宅街の一角だ。
街は静まりはじめていたが、どこかに生活の余韻がまだ漂っていた。
街灯の柔らかな光が舗道を照らし、生け垣や門灯の影が長く揺れている。
そんな通りを、一人分の足音がこつりと進む。
その背には、もう一人の女が軽く身を預けていた。
「そうそう。このまま真っすぐ行って、突き当り右や」
背中に乗った籠女の体温が、服越しでもじわりと感じられる。
軽いはずなのに、疲れが混じった呼吸だけが妙に存在感を持っていた。
「なんかさぁ」
しばらく歩いたのち、屍々子がぽつりと言う。
「神社の外に出たら、もっと未知の世界です。みたいな景色が広がると思ってたんだよね。
でも案外普通だね。ビルあるし、お店あるし……車まで走ってるし」
少し間を置いてから、屍々子は続けた。
「……でも、アタシの知ってる街並みじゃない」
籠女は肩越しに息をつく。
「アンタがどんな想像しとったかは知らんけどな。多分人間が住んどるとこと、大して変わらんと思うで?」
「……ふーん」
屍々子は気の抜けた返事をしながら、突き当たりを右へ曲がった。
その瞬間、視界に大きな影が立ち上がる。
それは、白く
窓の明かりが夜気の中に縦に積まれ、まるで無機質な箱がゆっくり呼吸しているようだった。
──でっか。
思わず心の中で呟き、屍々子は歩みを緩めた。
「で、こっからどこ進めばいい?」
「ん、もう大丈夫。着いた」
背中で「イテテ……」と息を漏らしながら、籠女がそっと降りる。
靴裏で体勢を整え、そのマンションを指さした。
「ウチの家、ここ」
屍々子は短く息を呑んだ。
「……やば」
♦︎
街灯に浮かび上がる白い高層マンション。その影が、手入れの行き届いた広い庭にゆったりと落ちていた。
「……ここ、運動会できるだろ」
思わず漏れた屍々子の声が、夜の静けさにふっと紛れる。
エントランスへ向かう途中、足元には丁寧に整えられた芝が続き、植栽が夜風にそよいでいた。
窓やバルコニーからこぼれる柔らかな灯りが、建物に静かな生活の息づかいを添える。
籠女が小さく笑う。
「運動……会? 何かの大会か?」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はエントランスの前へと歩を進めた。
ガラスの自動ドアの向こうには温かな光が広がり、外壁の無機質さと庭の落ち着いた気配が対照的に、この場所の格をさりげなく物語っていた。
自動ドアが静かに開き、二人はそのまま足を進めた。
十数歩ほど歩いたところで、黒い扉が通路をふさぐように現れる。
木でも金属でもない。
艶を抑えた鉱物のような不思議な質感。
「ここはな。妖気に反応して開くドアやねん。
せやから、妖気出されへん怪異はここ通られへん」
屍々子は扉を見上げたまま、素直に声を漏らした。
「……妖気が出せないって、そういう怪異もいんの?」
「うん。普通におるよ。
妖力使える怪異が少ないわけちゃうけど──」
横目で屍々子を一度だけ見て、籠女は右手をそっと扉へかざす。
───スッ。
風が通るような音とともに、扉は抵抗なく開いた。
「──使える奴は、なんか優等生って感じやな」
そのまま二人は奥へ踏み込む。
屍々子は、ふと口を開いた。
「ってことは、アタシもあの扉開けるんじゃね?」
籠女は軽く人差し指を立て、いたずらを仕掛ける前の子どものように首を傾げる。
「あ、言い忘れとったけどな」
そのまま、得意げな表情で口元を緩めた。
「このマンションに住んどる者以外は、妖気出しても開かへんで」
「ふーん。そうなんだ──」
気のない返事をしつつ、屍々子はエレベーターのボタンの下に置かれた黒いパネルに目を留めた。
先ほどの扉と同じ材質らしい。
縦に長く、成人の腰ほどの高さがある。
──さっきと同じやつか?
屍々子は興味に任せ、右の指先でそっと触れた。
籠女は足元に視線を落とし、サンダルについた小さな汚れに気づくと、指先でさっと払い落とした。
「まぁ、そんなん出来たら欠陥──」
───ピンポン。
澄んだ電子音が静かなエントランスに跳ねた。
籠女は一拍置いて顔を上げ、屍々子をまじまじと見る。
「は? アンタ、いま何かやったか?
"コレ"、住んどる者以外は反応せんって……ウチ、言わんかったっけ……」
故障ではない。
それだけは、籠女にもはっきり分かっていた。
屍々子は不思議そうに右手を見つめた。
「なぁ、籠女。アタシ……妖気出てる?」
籠女も視線を屍々子の右手へ落とした。
だが、そこには妖気の気配など微塵もない。
「……いや。出てへんよ」
確かめるようにゆっくりと言い切ったあと、
籠女は胸の奥に溜まったざらついた疑念を、どうにか押し沈めようとするように息をついた。
「ま、まぁ……。
たまたまやったかもしれんし──」
───ピンポン。
またしても、屍々子が黒いパネルに触れた途端、軽い音が響いた。
屍々子はゆっくりと籠女へ視線を向ける。
「……どういうこと?」
籠女は一歩だけ後ずさるように肩を引き、目を丸くした。
「こっわ!!」
その叫びと同時に、籠女はエレベーターのボタンを連打しはじめた。
少しして、エレベーターの扉が開いた。
その瞬間、籠女は反射のように屍々子の腕を掴み、ぐいと引き込む。
続けざまに二十五階のボタンを押し、迷いなく「閉」を叩く。
動作に一切の淀みがない。
扉が閉まり、機械が静かに上昇を始めた。
籠女はまだ扉を見据えたまま、低く呟く。
「今の、絶対他の住人に見られたらアカン。絶対や」
声音は強かったが、怒気はない。
どちらかといえば、焦りに近い響きだった。
屍々子は視線を落とし、ほんの息の温度だけで言葉を押し出す。
「……ごめんね」
胸の奥に沈むような感情はない。
ただ、軽率だった。と遅れて自覚しただけだ。
他の怪異に知られてはいけない。
自分の"異質さ"だけは。
それが原因で、好きな誰かが傷つくのは御免だ。
屍々子の謝罪に、籠女が弾かれたように振り返った。
「あ……ちゃうよ!」
驚いたように、そして慌てて言い直す。
「屍々子は悪ないで。……ごめんな」
その言葉の後、エレベーターの上昇音だけがやけに大きく響いた。
互いに口を閉ざしたまま、金属の箱は静かに目的階へ近づいていく。
ほどなくして、扉が開いた。
籠女は無言で「開」のボタンを押し続けた。
屍々子の方を見ようとはしない。
自分で空気を重くしてどうすんねん、と胸の内で苦笑する。
そのとき、背後で小さな声が落ちた。
「……籠女」
籠女は思わず顔を向ける。
「……え?」
屍々子は右手を見つめたまま、淡々と続けた。
「アタシ、分かったんだ。……全員黙らせたらいいって。
この身体が、何かの火種になるんだったら、それすらアタシが黙らせればいいって」
そして、少しだけ間を置いて言葉を重ねた。
「……だから負けない。絶対に」
その言葉の重みが、エレベーターの空気にゆっくり沈む。
籠女は一瞬だけ息を呑み、張りつめていた肩の力が、ほどけるように落ちた。
「屍々子……」
呼ばれ、屍々子はようやく顔を向ける。
「……ん?」
籠女は妙に真剣な顔のまま、しかし口にしたのは拍子抜けするほど現実的な一言だった。
「一旦、降りよか」
屍々子はキョトンとし、次の瞬間、力の抜けた返事を落とす。
「……うん」
二人はエレベーターを降り、廊下をしばらく進んだところで、籠女が一つの扉の前で足を止めた。
「ここや。ウチの部屋」
白い扉の横には、手のひらほどの黒いパネルが取り付けられている。
先ほどエントランスで屍々子が触れたものと同じ材質だった。
籠女はパネルを指さし、屍々子に向き直る。
「屍々子。試しに、左手で触れてみ」
「……いいの?」
「ええよ。他に誰も見とらん」
促され、屍々子はそっと左手を伸ばした。
指先がパネルに触れる。だが──何も起きない。
「……あれ? 反応しない」
もう一度、左手で触れる。
やはり、沈黙したままだ。
籠女が短く息をつく。
「ほんなら、右手で触れてみぃ」
屍々子は言われるままに右手をパネルへ添えた。
───カチッ。
小気味よい音がして、扉のロックが外れた。
「……なるほどな」
籠女は静かに呟き、ドアノブを捻った。
静かな音を立てて扉が開き、室内の柔らかな灯りが廊下へ淡くこぼれ出す。
「入りや」
その声は、どこか緊張をほぐすように柔らかかった。
目の前に広がる玄関は、想像以上に広い。
成人五人が横に並んでも余裕のある広さだった。
足元の土間はきれいに掃き清められ、光沢のある木材が静かに反射している。
屍々子は一歩だけ踏み込み、小さく「……お邪魔します」と告げる。
玄関の先に伸びる廊下から、ふっと匂いが流れてきた。
──何か、いい匂いする。
籠女も続いて部屋へ入り、扉が閉まる。
直後、内部のセンサーが作動し、電子錠の落ちる微かな音が静かな玄関に吸い込まれた。
短い沈黙ののち、籠女が口を開いた。
「屍々子。あの黒いパネルな、毛先ひとつでも反応するようにしぃや」
唐突な指示に、屍々子は瞬きを一つ落とす。
「毛先? どういう意味?」
籠女は言葉を選ぶように、ひと息ついてから続ける。
「身体のどの部分でも、あの黒いパネルが反応するようにせなあかんってことや。ほんで──」
籠女はサンダルを脱ぎ、揃えたあと静かに続けた。
「──この家の中では、"常に"妖気解放しとき」
屍々子は息を呑む。
「それって、寝る時も?」
籠女の声は抑揚こそ穏やかだが、揺るぎがなかった。
「"一日中"や。ただ、"危ない時"はウチが付いとるから安心しとってええ」
屍々子の眉がわずかに寄る。
「……危ない時って──」
問いかけは最後まで言葉にならなかった。
籠女が軽く屍々子の肩を指でつつき、冗談めかした口調で遮ったからだ。
「ほれ、早よ妖気出さんかい──」
笑ってはいる。だが、その瞳だけが鋭い光を潜ませていた。
「──もう特訓は始まっとんで」
──籠女先生、再び。──
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