第十五話 とある屋敷にて

そこは、古い絵本の最後にだけ描かれそうな洋風の屋敷のようだった。


白漆喰の外壁は月光に淡く浮かび、三階の煙突が夜空へ影を伸ばす。

蔦が壁を縁取り、深緑の正門と黒鉄のフェンスが、静かに敷地を囲っていた。


中に入ると、古い紙とインクの匂いが漂い、右手の階段が緩やかに二階へと続く。

天井の小さなシャンデリアが微光を落とし、赤いカーペットが足音を吸う。


奥には書斎。

赤革のソファが向かい合い、壁一面に色褪せた背表紙が並ぶ。


黒檀の大きな卓が一枚の影のように据えられ、高級な黒革の椅子に、一人の男が静かに腰掛けている。


カップに口をつける仕草は落ち着き、ほのかなコーヒーの香りが室内に溶けていた。


男は書類に目を落としつつ、そばに控えるメイドに声をかけた。


美鈴みすず……。身体の調子はどうかな?」


どこか父親めいた声音だった。
娘を気遣うときのような、柔らかな気配が言葉の端に滲む。


美鈴は表情を動かさず、まっすぐ男を見返す。


「はい、ミズト様。特に不具合はありません」


金髪を後ろでまとめた美鈴は、頭にはきちんと整えたホワイトブリムをのせている。

黒い瞳は澄んで落ち着き、光を静かにたたえている。


肌は透き通るように白く、メイド服の裾と袖は長めに整えられ、所作の一つ一つが静かな気品を伴っていた。


ミズトは小さく息を漏らし、口元に微かな笑みを浮かべた。


「そうか。それならいいんだ。…でもね、美鈴」


一拍置かれ、声色がいっそう穏やかになる。


「"不具合はありません"じゃなくて…
どこも"痛くない"って、そう言ってくれると嬉しいな」


ミズトがゆっくりと顔を上げた瞬間、
部屋の空気がわずかに沈んだように感じられた。


黒髪はセンターで整然と分けられ、一糸の乱れもない。


深い黒は光を吸い込み、卓上ランプに触れた部分だけが鋭く反射する。

刃物の稜線を思わせる、冷たい艶だ。


赤い瞳は暗がりでも輪郭を崩さない。

炎でも血でもない、"光の届かない深部で息づく何か"を思わせる赤。


見られた側の思考を一瞬でもだけ止めるような、静かな圧がある。


顔立ちが整っているだけではない。

無表情でも威圧が滲むのは、造形ゆえか、纏う空気ゆえか。

近づけば肌が粟立ち、離れても視線を逸らせない。


黒い紳士服は、軍服の規律と礼装の威厳を併せ持つ。

布の光沢が闇で控えめに揺れ、シルエットだけで威圧感を放っていた。


───コン、コン、コン。


静寂に包まれた書斎に、控えめなノックが落ちた。


ミズトは書類をめくる手を止め、扉の方へと軽く一瞥を送る。


「……美鈴」


短く名を呼ぶと、何事もなかったかのように視線を再び書類へ戻した。


「はい」


呼ばれた美鈴は返事をして扉へ歩み寄り、取っ手に手をかける。


そっと開いた扉の向こうには、美鈴と同じメイド服を纏った少女が静かに立っていた。


ミズトは書類に目を走らせたまま、扉の先の少女に言葉を投げかける。

その声音には、相手が誰であるかを最初から理解していたような確信があった。


「おかえり……さくら。しっかり頑張ってくれたみたいだね」


桜と呼ばれたメイドは深々と頭を下げ、一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。


その動きは、人間のためらいや呼吸のリズムをどこか欠いたように滑らかだった。


黒髪は艶を帯びて腰までまっすぐ落ち、前髪は柔らかく横へ流れている。

作為のないようでいて、どこか整いすぎた静けさがあった。


伏せた茶色の瞳は光を受けてなお温度がなく、感情の揺らぎと呼べるものが微塵も読み取れない。


白い肌の無機質な明度が、その印象をさらに際立たせていた。


ミズトは手にしていた書類からそっと視線を外し、桜へと目を向けた。口元にわずかな弧を描く。


「こちらへ持ってきておいで」


桜は短く「はい」と答え、音もなく歩み寄った。


背後で美鈴が扉を閉める。

その表情は、桜と同じく一切の感情を映していない。

ただ、二人のやり取りを静かに見守っていた。


桜は卓の前で立ち止まり、エプロンのポケットに指を差し入れる。

ゆっくりと取り出されたのは、手のひらほどの黒い巾着だった。


両手に丁寧に載せたまま、それをミズトの前に差し出す。


「ミズト様……お受け取りください」


そして、深く頭を垂れる。


声音も表情も揺れず、機械のような均一さで差し出してくる。


ミズトはその巾着を静かに受け取り、卓の上へと置いた。

口を軽くひねり、逆さに傾ける。


───カラ、カラ……カランッ。


乾いた金属音が書斎の空気を震わせた。


卓上に転がった三つの金属片。


それらは、因喰いんじきだった。

小さなカプセルが、赤、紫、そして青緑と並ぶ。


ミズトはひとつずつ視線で確かめると、静かに息を吐き、美鈴へと目を向けた。


「美鈴……これを上へ運んでくれないか」


「はい」


美鈴は即答し、足音を殺してミズトのもとへ歩み寄る。


その傍らで、桜はまだ深々と頭を垂れたままだ。


ミズトは一度だけ書類の角を整え、彼女の方へと視線を落とした。


「桜、ありがとう。もう頭を上げていいよ」


促され、桜はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、いつものとおり何の色も宿っていない。


ただ、命令を待つ機械のように、静かにそこへ立ち尽くしていた。


美鈴が卓の前へ進み出る。

差し出した両手のひらは、細かな緊張すらうかがわせないほど整えられている。


ミズトは黒い巾着をそっと落とすように彼女の手へ委ねた。


美鈴はその重みを受け取ると、卓上の因喰をひとつずつ、壊れ物を扱うように丁寧に巾着へ戻していく。


口をきゅっと結び終えると、無駄のない動作でエプロンのポケットへ収めた。


ミズトは二人に穏やかな微笑を向けた。


「二人とも、今日はもう休んでいいよ」


その声に、美鈴と桜は同時に一礼した。

角度まで寸分違わぬ、訓練された動き。美しいが、どこか不気味なほど揃っている。


二人が顔を上げると、ミズトは桜へ目を向けた。


「桜、胸のところ……少し、血が付いてるよ」


桜は一瞬も視線を揺らさず、無表情のままミズトを見つめ返した。


「申し訳ございません。すぐに直します」


抑揚のない、冷え切った声。

生身の少女が発しているとは思えないほど、無機質だった。


ミズトは細く息をつき、目元をやわらかくした。


「こういう時は、"直す"じゃなくて"落とす"って言うほうがいいかな」


「はい……ミズト様」


桜は機械のように返事をする。

そのまま美鈴と並び、音を立てずに扉へ向かった。


二人の背中が部屋を離れていくのを見届けながら、ミズトはひとり呟く。


「必ず叶えてあげるからね……。籠女」


───パタン。


書斎の扉が静かに閉じると、部屋にはひんやりとした静寂だけが残った。


ランプの灯が黒檀の卓にわずかな光を落とし、ミズトの影を細く揺らす。


彼はそのまま動かず、暗がりの一点を静かに見つめ続けていた。


夜は、ゆっくりと深みへ沈んでいく。



──威厳は、表か裏か──

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