第十二話 零か百か ③
零は、貼りついたような微笑をゆるく保ったまま、静かに口を開く。
「二回戦、ですか……」
「僕は
ですから、早々に因喰を渡していただけませんか?」
零の圧が、籠女の首筋にスッと刃を立てる。
籠女はその圧を正面で受け止め、口角だけを冷たく上げた。
「そないモリモリの殺気ぶら下げて、"戦いは好きやない"は……その笑顔くらい矛盾しとるなぁ?」
零の眉がほんのわずかに動いた。
籠女は続けて、無造作に言い放つ。
「"ソレ"……顔、痛ならへんの?」
零は一度だけ瞬きをし、はぁ、と小さくため息を落とした。
その仕草には怒りも苛立ちもない。
「回答になっていませんねぇ……」
首をわずかに傾げながら、右手の指先が顎へと触れる。
月明かりが頬に薄く流れ、貼りついた笑みは光に照らされた分だけ"作り物"の歪さを深めていく。
「……分かりました。では、答えたくないのであれば選んでください」
口元がわずかに持ち上がり、闇の中で薄い弧を描いた。
それは笑みというより"兆し"だった。闇が形を持つ直前の、ぞくりと肌を撫でる予兆。
「今ここで死ぬか、"餌"になるか」
──餌……?
籠女の胸に、軽く鋭い違和感が刺さる。意味はまだつかめない。
だが、この言葉の重みが、直感として全身に警告を打ち込んだ。
瞬間、空気が深く研ぎ澄まされ、刃のような殺気が二人の肌を走る。
籠女は、振り返りもせずに声を放つ。
「なぁ、後ろの姉ちゃん!──」
屍々子は、呼ばれた言葉に目を丸くした。
「う、後ろの姉ちゃん!?」
「──絶対そっから動くなや!」
籠女のその呼び方は、零に名を渡さぬよう咄嗟に差し替えた呼称。
そして、その一言にはもうひとつの意味があった。
この相手だけは、屍々子を近づけてはならない。
籠女の静かな判断が、短い言葉の奥に宿っていた。
屍々子も、それをすぐに理解した。
今、この言葉を無視して動けば、自分たちの死を意味する。
零は屍々子に一瞥をくれた後、籠女をじっと見据える。その漆黒の左目は、どこか"奥"を覗き込むように鋭く深い。
「そんなに守って……何か、隠したい事でもあるんですかねぇ」
籠女は口元に小さな笑みを浮かべた。
その笑みに呼応するかのように、鳥籠が軋む。
「男子は、女子の会話に入ってくんなや」
その一言が、戦端を裂いた。
十数本の白い手が、風を裂き零へ殺到する。
零は反応よりも先に身体が動いていた。
両手の甲を前へ突き出した瞬間、指先に青緑の光が走り、巻かれていた包帯がビュンと弾け飛ぶ。
零が低く呟く。
『収束』
白布が左右に大きく散り、零の周囲へ旋回し始めた。
軌道は迷いなく、風を巻き込みながら一点へ収束する。
包帯が重なり合い、目の前にひとつの"防壁"が形を成す。
白い手が、防壁へ叩きつけられるように到達した。
───ズダダダダ!!
防壁に食い込んだ白い指先が、ぎち、と音を立てて布を掴んだ。
籠女が短く吐き捨てる。
「引っぺがしたるわ」
白い手がさらに力を込め、防壁の布をぐ、と引き剥がしにかかる。
その動きに合わせて、防壁全体が軋み、波立った。
零は前に突き出していた手の甲を返し、手のひらを前に向けた。
『展開』
───ザン!!
防壁が零の意思とともに中央から外側へ一気に開く。
開放の衝撃が風圧となって白い手を弾き飛ばし、空気が鋭く切り裂かれる。
十数本の白い手が宙に散り、風圧が籠女の長い髪を掻き上げた。
その刹那。開いた防壁の真ん中から二本の白布が籠女へと伸びていた。
籠女は瞬時に右腕を胸の方向へ引き寄せる。
まるで宙に垂れた綱を渾身の力で巻き取るかのように。
空中に散っていた十数本の白い手が、ざわりと反応する。
左右へ振り分けられ、群れごと流動し始めた。
白い手が絡み、擦れ、捻じれていく。
───ギュルギュギュギュッ。
纏わり合った白い腕は、二つの塊に収束した。
その"質量"が、守護の形を得て──落ちる。
───ドン!!
収束した二本の腕の塊が、迫り来る二本の白布を上から地面へ叩きつける。空気圧の振動が足元まで伝わった。
地面に叩き伏せられた白布は、白い塊の下でうねり、かすかに痙攣していた。
零はその様子に目を細め、口端だけを愉快そうに吊り上げた。
「へぇ……。いい動きだ」
その声音に合わせるように、防壁の包帯がほどけ落ちた。
零は腕を交差させ、手のひらを前方へ突き出す。動きは滑らかで迷いがない。
「餌にするには──」
剥離した包帯が、空気を裂くように変化を始める。
白布が一斉に尖り、十本の白い槍となった。
「──勿体無い!」
───バサバサバサ!
槍は弾かれるように放たれた。
白布が螺旋を描きながら、一直線に籠女へ迫る。
籠女は即座に地面の白い塊へ意識を向ける。
纏めあげた力を解き、反撃の形を作ろうとする。
だが、その速度は僅かに遅い。
群れの中から解かれた白い手が数本、迫る槍を掴み取る。
しかし、残りの数本までは届かない。
残った槍が一直線に迫る。
──間に合わん!
籠女は判断より先に体を落とし、左腕を胸の前へと掲げた。
───ズシュシュシュッ。
白布の槍が、籠女の左腕と両脚を貫いた。
鋭い衝撃が、骨の奥まで響く。
何かが裂けた手応えと、遅れて鋭い痛みが走る。
「……ぐっ」
その瞬間、地面の白い塊が完全に解け、無数の手となって走った。
右から滑り込んだ白い手が、籠女の身体に突き立った白布を絡め取る。
まるで獲物を奪い返すかのように、勢いのまま引きちぎる。
掴まれた十本の白布は、うねりながら反発し、白い手を押し払うと、弾かれた矢のように零の両腕へと戻っていった。
その光景を前に、屍々子は拳を固く握りしめた。
爪が掌に食い込み、じわりと血が滲む。
その痛みすら意識できないほど、胸の奥がざわつく。
戦えない自分への悔しさと、無力という言葉の重さに、喉が焼けつく。
それでも、屍々子はただ見つめる。
いま動けば、すべてが終わる。
だからこそ──信じるしかない。
籠女がまだ立っている限り、自分がすべきことはただ一つ。
動かないことだ。
傷口の裂け目を伝って血が流れる。
熱が流れ出す感覚に、籠女はほんの短い息を飲む。
それでも籠女は痛みを零に悟らせまいと、口元だけで笑ってみせた。
「はぁっ、はぁ……。さっきから言っとる、その"餌"ってやつ。
どっかの
零は肩を竦め、柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ。見下すつもりはありません。僕は、事実を言っているだけです」
零は一呼吸置いて、言葉を継いだ。
「"あなたが因喰になる"には、惜しい。そう伝えたんですよ」
零が穏やかに告げたその一言に、
屍々子も籠女も、思考より先に呼吸を忘れた。
沈黙の中、籠女はゆっくりと一歩退いた。
脳裏に、冷たい予感が走る。
それは曖昧な不安ではなく、輪郭を持った"最悪"だった。
「因喰になる……? どういうことや」
零は、まるで不意打ちを受けたように、目を細めた。
「おや。ご存知ないんですか」
その言い回しには驚きではなく、呆れにも似た無邪気さが滲む。
「てっきり、あなたは"他人の因喰"を持っている以上、最低限の情報くらいは把握しているものかと」
籠女の表情が、微かに歪む。
言葉を探し、噛みしめるように吐き出す。
「……まさか、因喰の"餌"って──」
その言葉が意味するものを、屍々子も理解した。
胸の奥が冷え、思考が一拍遅れる。
「「──怪異……」」
"答え"が落ちた瞬間、零は小さく口角を上げた。
音もなく形だけの笑み。
その反応が、籠女の推測が正解であることを何より雄弁に物語る。
「なるほど。そこまで辿り着けるなら、話が早い」
軽く肩をすくめるような口ぶりで、零は続けた。
「……どうです。因喰が必要なのであれば、"僕たち"のところへ来ませんか?」
闇に沈む視線が、籠女を射抜く。
「ここであなたが餌になるのは、本当に惜しい。
あなたの資質なら、もっと上を目指せる。
そして"お母様"も、きっと喜ぶ」
微笑みがひらく。
挑発とも、誘いとも取れる薄い笑い。
「さあ、選びましょう。
ここで餌として終わるか、
僕らの側で、喰う側に立つか」
零は、言葉そのものを愉しむように、呼気の端に余裕を纏わせていた。
籠女は、唇をわずかに歪める。
「はあ?」
「いつ、お前が選別できる側になったんや。
ウチがいつ、喰われる側になった!」
その言葉と同時に、十数本の白い手が爆ぜるように伸びた。
零は反応を待たない。
肩がわずかに弾むと同時に、巻かれていた包帯が空中へ解け放たれる。
「おや。先程よりも速度が落ちてますよ?」
呟きは柔らかいが、動作は鋭い。
白い手が届くよりも早く、宙へ広がった包帯が一斉に渦を描き、迫る手群を上から斬り落とした。
白い手は反射的に掴み返す暇もなく落下し、
地に触れると同時に音もなく崩れ、灰のように散った。
布と空気がぶつかる音が短く鳴った直後、零の右腕が前方へ突き出される。
『
その響きに呼応するように、右手の包帯が音もなく伸び、シュルシュルと太い棒状へ変形する。
勢いは一拍の猶予もなく、直線のまま籠女へ放たれた。
空気が引き裂かれる音が耳に届くより早く、それは標的へ到達する。
───ドゴォッ。
鈍い衝撃音が響き、棒は籠女の腹部へ直撃する。
「──ぐ、ふ……っ」
膝が崩れかけた身体を、籠女は両足の力で押しとどめた。
折れた呼吸を、意地で繋ぎ止める。
白布の棒は零の手へ戻り、人ひとりを容易に叩き伏せられるだけの長さで形を収めた。
質量を得た白が、零の掌に重たく落ち着く。
籠女は崩れかけた上体を無理に起こし、零を睨み上げる。
呼吸は途切れ、声にならない。
「はっ──はぁ……は……」
零は返答すら待たず、静かに距離を詰める。
そして、持った棒を下から跳ね上げるように振るった。
───ガンッ。
鈍い音が骨を震わせる。
籠女の頭部が大きく揺れたが、膝は落ちない。
零は間髪入れず、棒を振る。
横から、斜めから、上から。
打点と角度を変え、機械のような正確さで、籠女の顔や身体を叩き据えた。
乾いた衝撃音が連続する。
籠女は血を噛みしめ、なお立つ。
呼吸を、ただ力でつなぎ止める。
叩きつけられた衝撃に、籠女の髪がほどけた。
結び目から弾けたヘアゴムが落下し、その軌跡に青緑の光が一瞬、細く散る。
地面に転がったヘアゴムとともに、黄色く濁った因喰が音もなく滑り落ちた。
零はそれを視界に捉えた途端、動きを止めた。
「……やはり、持っていましたか」
無造作に手を伸ばす。
拾い上げようとしたその瞬間、籠女の右手に妖気が走り、指先に淡い光が立ちのぼる。
「触るな!」
叫びと同時に、鳥籠から白い手が一本、唸りを上げて突き出された。
零は地を蹴る。
身を軽く翻し、紙一重でそれをかわす。
風を切る音が過ぎ、二人の距離が開いた。
零は足を止め、微笑を浮かべる。
「あなたは今、選べる側ではありません。"僕に喰われる側"です」
「そして、僕は争いは苦手です。でも僕は争いにならない。
いつもこうやって、争いになる前に相手が屈服してしまう」
零は淡々と告げた。
目の前の苦痛も、反抗も、過程のひとつとしてしか見ていないように。
屍々子は堪えきれず、一歩踏み出しかけた。
「籠女!!」
その声を、籠女が裂く。
「来んなや!!」
血に濡れた息のまま、叫ぶ。
「はぁ、はぁ……。
アンタが死んだら……アンタの姉ちゃんはどうなる!!」
「……姉ちゃんに会えるまで……死ぬなや!!」
屍々子の足が、そこで止まった。
言い返す理由なんてなかった。
ただ、籠女の言葉が、まっすぐ胸に刺さった。
「……わかった!!」
籠女は立つ。
崩れ落ちそうな身体を、ただ"意地"だけで支えて。
その意地が燃えている。
炎のように、消えずに。
背後の鳥籠が、引かれるようにして籠女の背に寄る。
籠女は振り返らず、薄く笑う。
「……心配すんなや。喰うのは……"ウチら"や」
籠女は胸の前で両手を勢いよく合わせる。
───パンッ。
乾いた音が夜に響き、同時に世界の音が切れた。
妖気が両手から噴き上がり、瞬く間に腕を覆う。
背後から白い手が十本、静かに伸びる。
左右五本ずつが籠女の体勢をなぞるように前方に並び、
────二十の指が組まれ、祈るように重なった。
それは、全てを掴み取り、捻じ伏せるための十の手。
『
その名が落ちた瞬間、零の表情がわずかに崩れた。
これまで微動だにしなかった笑顔が、初めて形を失う。
そして籠女は、鼻で笑った。
「なぁ……笑顔、消えてんで?」
──奥義、発動。──
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