第十一話 零か百か ②
「この先の神社で、長髪の男を見かけませんでしたか?」
その一言で、
察した。
──神社まで行ってへん、は悪手や。
籠女は、ごく自然な角度で首を傾けた。
「あぁ……どうやろなぁ」
曖昧に濁し、情報の芯だけをそっと抜くような声音。
続けて、
ごく一瞬。だが、その意味ははっきりしていた。
"本当のことは言うな"
その短い合図を、屍々子は受け取った。
「あぁ。アタシらしかいなかったよ」
屍々子の返答に、女は「そうですか」と形だけ微笑んだ。
籠女はその隙を逃さず、踵を返して屍々子の手を掴む。
「ほな、ウチら用事あるから帰るわ」
一歩を踏み出そうとした、その時。
「……でも、おかしいですねぇ」
女の声が空気を叩いたとたん、世界が沈んだ。
音が吸い込まれ、夜気がひとつ、深く軋む。
声色は先ほどと変わらない。むしろ柔らかいほどだ。
だが、その柔らかさの奥で、確かな圧だけが肌へじわりと食い込んでくる。
まるで目に見えない刃が、肌のすぐ外側で並行に構えられたような──そんな緊張。
籠女は屍々子の手を掴んだまま、すっと動きを止める。
考えるより先に身体が反応した。
そして、言葉より先に意識だけが空気へ滲む。
彼女の瞳が、ゆっくりと女へ向けられる。
瞬きのないその視線には、静かだが鋭い光が宿っていた。
屍々子は、籠女の指に込められた僅かな力を悟る。
女はゆっくりと空を仰ぐ。
その動作に、何かを"聴き取る"ような静けさが宿った。
凪いだように動かぬ表情のまま、温度を欠いた声が淡々と続いた。
「
雲が裂け、月光がゆるやかに地面を洗いはじめる。
その白い光を浴びながら、女は空を仰いだまま微動だにしなかった。
「ここにある、て。……
屍々子の耳が、何かを拾った。
───ズル……ズルッ……。
地を這うような、乾いた摩擦音。
──ッ? この音、何だ?
雲がすべて流れ去り、月光が地面をさらした瞬間。
籠女が、喉の奥で短く息を呑んだ。
「っ、な……!?」
その音の正体。
屍々子たちの足元、
その周囲を大きく囲むように、地面を這っているそれは──
女の身体から伸びた、無数の包帯だった。
左目を覆う包帯の続きが、
そのまま両腕から地へ流れ落ち、
枝のように分かれながら、二人の周囲を広く取り囲んでいる。
逃げ道は、すでに塞がれていた。
包帯は青緑に脈打つ。
呼吸しているように、獲物を味わうように。
女はひと筋も動かず、ただ籠女を見つめていた。
その瞳孔は常軌を逸したほどに開き、
夜の闇さえ、そこから逆流していくようだった。
「持ってるんでしょう……?」
地を這う包帯が、ざわりと震えた。
「──
呼吸を置かず、籠女は鳥籠の名前を叫んだ。
「
刹那。首元の鳥籠が外れた。
青緑の光を纏い、籠女の前で直径一メートルに膨れ上がる。
そのまま、白い手が十数本、鳥籠から弾けるように飛び出した。
地を這っていた包帯が一斉に跳ね上がり、宙で蛇の様にうねる。
包帯の群れが、空気を裂いて迫った──その時。
───トッ。
屍々子の両肩に、衝撃が走る。
「……っ!?」
二本の白い手が、力強く彼女を後ろへ突き飛ばした。
反動で屍々子は石段まで吹き飛ばされる。
───ズザァ。
石段の手前で体をひねりながら着地し、包帯の射程から辛うじて逃れる。
呼吸を整える間もなく視線は籠女に向かう。
「籠女!!」
包帯が、猛烈な速度で襲いかかる。
一本残らず籠女に絡みつき、鳥籠ごと覆い尽くした。
光を失ったその姿は、まるで白で塗り固められた棺のようだった。
女は柔らかい声色で微笑んだ。
「このまま、ぺちゃんこにしてあげますね?」
籠女を覆う包帯は、ギリギリと軋む音を立てながら、じわりと押し潰すように伸びていった。
「くそッ! させねぇ!」
屍々子は半身を軽く落とし、右手に妖気を走らせようとしたその瞬間、
女の眉が小さく動き、表情が止まった。
「あら……?」
ギリギリと軋んでいた包帯は、突然音を消し、小刻みに揺れ始める。
女の視線が鋭く刺さる。
──動かない。……何をした。
包帯が、ぴたりと止まっていた。
続けて音。
───ブチッ……。
裂ける音。
それは"布がちぎれた音"だった。
女の表情にかすかな動揺。一歩下がり、黒い履物がわずかに傾いた。
「まさか……! ありえない!」
───ブチブチブチッ!
「ふざけないで!」
そう叫ぶと、女は指先に青緑の光を纏わせ、包帯を放つ。
複数の白布が地を擦り、音を引いて加速する。
包帯の塊へ、一直線に。
その時、包帯に覆われた塊から滲む"圧"が、女の頭を撫でた。
それが何か、女はもう分かってしまった。
それは、"殺気"の顕現。
───バシュンッ!!
耳を裂く音とともに、白い塊の内部から多数の白い手が飛び出した。
四方八方、寸分の猶予もなく放たれる。
そのうちの一本が、女の目前から伸び、首を掴む。
女は息を奪われ、声にならない音を漏らした。
「……っ、が……」
女の首を掴む白い手の"背後"で、包帯の塊がぱらぱらと崩れる。
解け落ちる白布の中心に、籠女が静かに立っていた。
姿を確認した瞬間、屍々子の胸に微かな安堵がよぎる。
緊張は消えない。だが、呼吸がひとつ戻る。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
それは、命拾いしたことへの安堵ではない。
籠女が自分の前から消えてしまう──そんな予感が、ほんの一瞬、胸を掠めたからだ。
どこかで、姉を失った記憶と重ねてしまっていた。
籠女はちらりと屍々子を振り返った。
その表情に怯えの色はなく、いつもの調子のまま。
「アンタ……妖気、出そうとしてたやろ? アカンで?──」
女へ視線を戻すと、声は低く沈む。
「──寄ってくるからなぁ。こない面倒なんが」
籠女は女を見据え、問いかけた。
「アンタ、なんでウチが因喰持っとるって分かったんや? それに、何を企んどる」
掴んでいた白い手が、わずかに力を緩める。
だが、女の表情は微動だにしない。瞬きすらなく、半開きの口が宙に残る。
籠女の声音が鋭くなる。
「……お前、一人で動いとるわけやなさそうやな。誰に指示されとる!」
女の腕を包んでいた青緑の光が、静かに衰退を始めた。
色が薄れ、粒子が夜へ散る。
まるで力そのものが、崩れていくように。
その瞬間、女の唇が微かに震え、掠れた声が漏れた。
「……
言葉と同時に、左目を覆っていた包帯がはらりと解け落ちる。
屍々子の直感が、刺すような殺気に触れた。
──ッ!
「籠女ぇ!! 今すぐそいつから離れろ!!」
叫びが空気を裂くと同時に、女の首ががくんと後ろへ倒れ込んだ。
次の瞬間───ヒュン。
籠女の喉元へ一本の白布が走る。
──ッ!!
籠女は反射的に半歩退いた。
「あぶなっ……!」
白布は籠女の首筋を掠め、細い赤線を引くと、その勢いのまま、女の首を掴んでいた白い手を手首ごと断ち切る。
後ろに垂れた頭の位置から、女の声色そのままの言葉が零れ落ちる。
「
声の終わりとほぼ同時に、頭がゆっくりと持ち上がり──ズン、と空気が落ちた。
まるで殺気が音を伴って落ちてくるかのように。
女──
露わになった左目は、白目を失い、底なしの黒に染まっている。
深く、冷たく、全てを見透かすような闇。
女の姿を纏ったその男は、切断され、塵となって崩れ落ちる白い手を首元から払い落とすと、静かに微笑んだ。
「初めまして。僕は、
……先程は
丁寧な声音からは想像もできない、圧倒的な殺気が立つ。
籠女は軽く顎を引き、睨み返す。
「他人の物を勝手に壊すなって、オカンから教わってなかったんか?」
零は笑みを崩さぬまま応じた。
「それはお互い様でしょう?
それに……僕らの"お母様"は、壊してでも手に入れろって言ってました」
「ほうか……ほんなら──」
籠女は少し首を傾け、首筋に垂れた血を右手の人差し指で軽く払う。
「──二回戦といこか」
──本戦、開始──
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