第十話 零か百か ①
月の光は、夜気に沈む廃神社を静かに照らしていた。
石畳みにはかすかに鉄と焦げた匂いが残る。
落ち葉を揺らす秋風が、苔や朽ち木の匂いと混ざって運ばれ、遠くの山影は墨絵のように夜に溶けていく。
月光が揺れる影を、二人の足元に落とした。
「この階段降りたら、マジでアタシの知らない世界が広がってるってことだよね?」
屍々子は石段を降りながら、まるで友人に問いかけるような軽い声で籠女に尋ねた。
籠女は足を止めることなく、淡々と返す。
「アンタからしたら、それはそうやな。
ただ、ウチの疑問としては……」
屍々子はちらりと横目で籠女を見た。
「……ん?」
籠女の視線は階段の先の闇に漂いながら、ゆっくりと口を開く。
「なんで、この神社だけ"形も変わらんと"、人間の世界でも、この世界でも共通しとるんやろうなって」
十秒ほどの沈黙が続いた。
石段を降りる二人の足音だけが、夜の空気にぽつりと響く。
その静けさを屍々子は破る。
ほんの少し茶目っ気を含んだ声で、彼女は問いかけた。
「籠女先生。それどんくらい謎?」
籠女はふっと笑い、わざとらしく首を傾げた。
「そうやなぁ……」
彼女は横目で屍々子の制服をちらりと見やり、肩をすくめる。
「校則でカーディガンが禁止されとるくらい謎やな」
屍々子は思わず口元を緩めた。
「それうちの高校の校則でもあるわ~。
あれホントに謎。……てか、怪異の世界にも学校あるんだ?」
「あるで?」
籠女は軽く頷くと、今度は屍々子の胸元を指さす。
「それより屍々子。アンタの制服、そない血まみれやと着てて気持ち悪いやろ?」
屍々子は自分の制服へちらりと視線を落とし、眉間にほんの小さな皺を寄せた。
その声には、あきらめとも落胆ともつかない色が混じっている。
「って言われてもさぁ……。胸のとこ破けてるし、この血も完全に落ちないだろうし」
籠女は、どこか得意げに鼻を鳴らした。
「ふふん。ウチが隣におってよかったなぁ。"それ"、直せるで」
屍々子はぱっと顔を上げ、目を丸くする。
「マジ!?」
「ここやと、あれやな。まずは、この階段全部降りよか」
二人は石段を降りていった。
会話は途切れることなく、他愛のない言葉が風に乗る。
階段を降りきると、少しの平地が広がり、歩調は自然と落ち着いた。
「……屍々子」
籠女がふいに足を止め、隣を歩く屍々子へ声をかけた。
屍々子も立ち止まり、「ん?」と首を傾けて籠女の方を見る。
その視線の先で、籠女の右手にはいつの間にか青緑色の妖気が灯っていた。
淡い光は夜気に揺れ、手元だけが静かに明るい。
「ちょっと、こっち向いてくれるか?」
促され、屍々子は体の向きを直す。
「ん……。これでいい?」
「それでええで。……ほな、ちょっと失礼すんで~」
籠女は軽く微笑むと、屍々子の胸元──血の跡と、裂けたまま縫いも戻らぬ布地へ、そっと開いた右手を添えた。
妖気がふわりと染み込むように広がり、制服の表面を淡い青緑が包み込む。
光が屍々子の頬に反射し、肌までもがうっすらと青緑色に染まった。
籠女は手を添えたまま、落ち着いた声で説明を続ける。
「ウチの因子の色は"
こうして物に力を与えると、壊れたもんを直したり、形や大きさを変えたりできる」
「ウチの、首のところにある鳥籠を大きゅう出来るのも、そのおかげや」
屍々子は光に照らされながら、興味深そうに目を細めた。
「"因子の色"……?」
屍々子は、境内で籠女に聞かされた因子の話が頭をよぎる。
「……じゃあこの青緑の色は、籠女の因子の色が、そのまま妖気の色になってるってこと?」
「そういうことや。
因子には、みんなそれぞれ異なる色が付いとる。
そして、色ごとに固有の能力があるんよ。……せやから、アンタの因子は白や」
説明が終わると同時に、制服を覆っていた妖気はすっと引いていき、光は静かに消えた。
「ほな、直ったで」
籠女は屍々子の胸元から手を離した。
屍々子は自分の胸元を見下ろし、思わず息を呑んだ。
破れも血の跡もなく、まるで仕立てたばかりのように整っている。
「え、えええー!? ホントに直ってる!」
驚きと喜びが入り混じった声で叫び、屍々子はぱっと顔を上げて籠女を見る。
その笑顔は、無邪気なほど真っ直ぐだった。
「籠女、ありがと」
あまりに素直に感謝を向けられ、籠女は一瞬たじろいだように空へ視線を逃がした。
「ん、ええよ~。こんな可愛らしい制服がボロボロやったら、さすがに不憫やし」
その言葉が空気にほどけた瞬間、
籠女の視線の先で、月に薄い雲がゆっくりと流れ込み、光が静かにかき消されていく。
夜の気配が、一層深く。
「一つ、お尋ねしたいのですが」
女の声。
空気が止まった。
「「……ッ!?」」
屍々子も籠女も、反射的に肩を揺らし、同時に声の方へ身構えた。
平地、約六メートル先。
つい先ほどまで"何もなかった"はずの空間。
いつの間にか──
人影が立っていた。
気配はゼロ。
まるで世界の隙間から染み出してきたかのような、異様な存在感。
屍々子の背筋に冷たいものが走る。
籠女もまた、喉奥で短く息を呑んだ。
月は雲に隠れ、その存在は"影の形"としてしか認識できなかった。
輪郭だけが、闇の底から切り抜かれたように浮かんでいる。
その影が、再び問う。
「……一つ、お尋ねしたいのですが」
異常。
その低い声が落ちた瞬間、場の空気がひとつ分、重く沈む。その重さに、呼吸さえ引きずられる。
屍々子が反射的に息を吸い、何か言おうと口を開きかけた。
しかし、その前に籠女が静かに口を開く。
その声には、言葉以上の意味があった。
後ろに下がれ──屍々子にそう告げているかのようだった。
「人に尋ねる時はな……そない急に声かけるもんやないで?」
声は低く、だが妙に落ち着いている。
同時に、その藍色の瞳の奥はひどく冷えていた。
「ほんで、アンタ……」
わずかに顎を上げ、女を真正面から射抜くように見据える。
「さっきから妖気漂わせて……どないしたん? 臭っとんで──」
籠女の視線が、鋭利な殺気を帯びた。
「──それ、"誰"に向けとん?」
空気がビリ、と震えた。
冷えた夜気が張り詰める。
女は、一拍の沈黙を置いてから
「失礼いたしました」
と、口元だけで静かに笑った。
声音は丁寧そのものだ。
だがその奥に、どこか底知れぬ"探り"の気配が潜む。
「暗い夜道では、どうも目が利かなくて。
時折、自分の妖気を灯り代わりにしてるんです。……こうやって」
その言葉に合わせるように、女の両腕の周囲に、青緑色の光が大きく広がった。
光は左右にふわりと広がり、身体全体を包み込むように灯る。
闇に沈む夜道の空気を揺らし、まるで意思を持ったかのように、静かに波打っていた。
翠の妖気。
──籠女と同じ色。
屍々子は無意識に重心を落とす。
いつでも踏み出せるよう、呼吸だけを静かに整える。
女のわずかな所作さえ、視界の中央へと据えた。
妖気の光が辺りを照らし、その影の輪郭を浮かび上がらせる。
背丈は百五十センチほどか。肩に届く黒髪はさらりと揺れる。
額へまっすぐ落ちる前髪の下、額の上から左目を覆うように包帯が斜めに巻かれ、頬を伝って顎のあたりまで落ちる。
その隣で、茶の瞳が静かにこちらを見据えていた。
幼い、と一瞬思わせる顔立ち。だが、その眼差しだけは妙に深く、年齢を測らせない。
身につけているのは膝下まで落ちる黒いワンピース。
その背には、とぐろを巻く"白蛇"の意匠が静かに浮かんでいた。
肌寒い夜気の中、半袖の腕はひどく心許なく映る。
左目を覆う包帯が両腕へと続き、指先まで巻かれている。
その整いは儀式の装束のようで、純白の布はまるで息づくように微かに脈動していた。
両腕に巻かれた包帯の一部が、女の身体の周囲を宙で漂うようにふわりと浮かび、濃い青緑の妖気をまとってゆらゆらと揺れていた。
その光は静かに波打ち、色彩を溶かすように包み、もはや女の色は判別できない。
「先ほどは、あなた方を驚かせてしまって申し訳ありませんでした。
でも、このように妖気を出しながら歩くのは……"不潔"でしょう?」
女は口元だけで微笑む。だが瞳は冷たく、笑みの欠片すら宿していない。
まるで背筋を下から舐められるような視線が、じわりとまとわりつく。
「しかし、よくお気づきになられましたね。……私の妖気」
だが、屍々子と籠女はその威圧をただ受け流すように、静かに女へ目線を向けた。
「……アンタ。そうやって相手を試すん、癖みたいやな」
挑発でも強がりでもなく、ただ事実を述べるような声音。
「……で? 尋ねたいことって、なんや?」
籠女が淡々と問い返すと、
女はふと屍々子たちの背後──石段の先へと視線を滑らせた。
「この先の神社で、長髪の男を見かけませんでしたか?」
──水面下の闇が、動き始めていた──
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