第九話 姉の居場所
「お姉ちゃんが消えた時と同じって……。
一体どういうことなん? しかも"ここで"って」
戸惑いの滲んだ声が、
声の主は、
月を隠した雲が流れるたび、廃神社の境内は淡く暗さを変え、
その静けさは、まるで二人の会話だけを拾い上げようと耳を澄ませているかのようだった。
屍々子は視線を落とした。揺れた瞳が、言葉を探している。
「どう伝えたらいいかな……」
短く息を吐き、顔を上げる。
籠女をまっすぐ捉えるその目には、覚悟とも諦めともつかない影があった。
「……アタシには、同い年の姉がいる。
もう十年前かな……ここでお姉ちゃんは、突然アタシの前から消えた」
屍々子は、姉が消えた日のこと。
そして自分の身に起きた出来事を、途切れ途切れに語っていく。
胸の奥でいまだ整理しきれない記憶を、そのまま掘り返すように。
夜は回り、影と声を絡めながら籠女の意識に静かに降り注いだ。
語られた記憶の重さが、闇に溶けるように胸に滲んでいく。
長い沈黙ののち、籠女はゆっくりと息を吐いた。
「……ごめん。言葉が出ん……。
ただ、アンタが嘘をついてないって事は、ようわかった」
否定も肯定もできず、押し寄せる事実をどうにか自分の中で受け止めようとしているのが、言葉の端々に滲んでいた。
張りつめた空気の中、屍々子は少し気まずそうに俯く。
籠女はふっと視線を巡らせ、境内を見渡す。
「でも不思議やね。ウチは"この景色"全然違和感ないけど、屍々子から見とる"この景色"は鏡みたいに反転しとるって」
その声色には、淡い戸惑いと、夜風に溶けて消えそうな儚さが混ざっていた。
屍々子は、落ちていた視線をそっと引き上げた。
「そう。……なんかそういう不思議な事が起きてるんだ。くらいにしか思ってなかったから、普通に家帰るなんて言っちゃったけど」
屍々子は空を見上げた。
言葉の端が、かすかに乾いた笑いにほどける。
やるせなさを押し隠すみたいに、ゆっくりと口角だけを上げた。
「……そもそもアタシがこっちの世界に来ちゃってんだもん」
屍々子がそう告げたとき、籠女はもう返す言葉をもたなかった。
ただ、その横顔を見つめるだけだった。
その沈黙の中で、屍々子が「あっ」と小さく息を漏らす。
指先がわずかに動き、思い出の影が瞳に差し込んだ。
「ごめん。ひとつ……言い忘れてた」
籠女は瞬きをする。
屍々子は、まっすぐこちらを見据えた。
その表情には、話すことに迷いの跡がわずかに残っていた。
「アタシが死ぬ瞬間……そこの鳥居の向こう。
……そこで、お姉ちゃんっぽい人見かけた」
言葉が落ちた瞬間、境内の空気がひやりと変わる。
籠女の瞳が大きく揺れた。
「それ、ホンマにアンタの姉ちゃんだったん?」
震えを含んだ声が、夜の静けさに吸い込まれていく。
屍々子は視線を落とし、記憶を探るように呟く。
「あれは……多分──」
言葉の途中で、何かが腑に落ちたように、目の奥がゆっくりと焦点を結ぶ。
迷いの膜が静かに剥がれ落ち、確信の色が浮かぶ。
屍々子は顔を上げる。
「──いや……。絶対にアタシのお姉ちゃんだった」
屍々子は息を整え、静かに告げた。
「あれは……。
屍々子の口からその名が落ちたあと、短い間が訪れた。
籠女は目を細め、鋭い視線を屍々子へ向ける。
「屍々子……。もし、それがほんまにアンタの姉ちゃんやったんやとしたら──」
言いかけて、籠女は息を呑んだ。
口を閉じ、ほんの一瞬だけ視線をそらす。
言わねばならない言葉を、どう置けば傷が浅くなるか探しているようだった。
「──アンタの姉ちゃん、おそらく怪異になっとんで」
告げたあと、空気が固まった。
「……は?」
屍々子の声は、驚愕というより、理解が追いつかない音だった。
籠女は、まっすぐに言葉を重ねていく。
「もし、アンタの姉ちゃんがこの怪異界で十年以上も生きられとるんやとしたら……それは人間のままでは不可能や。
厳密には、怪異界に人間が住む場所が存在しないんやなくて」
そこで籠女は言葉を切った。
夜気すら、その続きに身構えるようだった。
「怪異界では、"人間が生きられない秩序"になっとるんよ」
その言葉が落ちた途端、屍々子の思考が止まった。
何をどう結びつければいいのか分からない。
意味だけが遠くで響いて、身体に入ってこない。
「……人間が生きられない、秩序……?」
籠女は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「秩序は、この怪異界を形づくっとる
風が止まる。
境内に張られた夜気が、薄く震える。
「──それは、怪異として存在しとる」
空気が、低く軋んだように感じた。
屍々子は困惑を押し隠すことができず、眉間に皺を寄せた。
胸の奥で、得体の知れないざわめきがゆっくり広がっていく。
視線が定まらない。
「ちょっと待って。いろいろ頭に入ってこない」
籠女はそんな屍々子の動揺を見つめながら、静かに続けた。
「秩序は、十体の怪異で構成された集団。
その一体一体が、この世界でも最上位の力を持っとる」
言葉が落ちるたび、周囲の闇が深まるようだった。
「世界の形を維持しとるんは、そいつらや。
……この怪異界での、"上"の存在」
籠女はふと夜空を仰いだ。
風が枝葉を渡り、影だけが静かに揺れている。
「この世界に人間がおったら、秩序の奴らが放っておくわけない。
隠れててもいずれ見つかって……処理されてまう。
だから、アンタは運悪く人間のまま、たまたま別の怪異に殺されてしもうたけど……」
そこまで言ってから、籠女はゆっくりと屍々子へ顔を向けた。
「今のアンタは怪異の屍々子ちゃんや。
せやから、秩序に目ぇつけられる心配はない。そこは安心しい」
その声音には、慰めも同情もなかった。
ただ、事実だけを置いていくような静けさがあった。
「アンタも、アンタの姉ちゃんも怪異になっとる理屈は……正直、ウチにも分からん。
でも、姉ちゃんがまだ生きとるんなら、まずは……そこやな」
屍々子は返す言葉を持てず、胸の奥に落とし込むように、ただ黙って受け止めた。
納得には遠く、拒むこともできない。
それは飲み込むしかない現実の重さだった。
"姉に会える可能性"がある。
それが救いなのか、それとも、もっと残酷な現実への入口なのかは分からない。
それでも今は──
それだけが、屍々子の怪異界での小さな希望になっていた。
しばらく二人のあいだに風の音だけが流れたのち、籠女がぽつりと口を開いた。
「……ちょっと、冷えてきたなぁ」
白い息がふっと漏れ、籠女は肩をすくめた。
その横顔を一度だけ夜風が撫でていく。
「……屍々子。ほな帰ろか」
屍々子は落としていた視線を籠女に向ける。
言葉の意味はまだ飲み込めず、指先が袖をかすかに撫でる。
胸の奥に、知らぬ間に小さな空白ができていた。
そしてそのわずかな隙間に、言葉がふと寂しさを帯びて零れる。
「……そっか。いろいろありがとな。またどっかで会ったら──」
屍々子が言い終える前に、籠女は眉ひとつ動かさず言葉を被せた。
「はぁ? 何言うとんねん。アンタも来るんよ? "
不意を突く調子に、屍々子は目を瞬く。
「え……。そんな悪いって──」
その遠慮を切るように、籠女はすっと手を伸ばし、屍々子の左手首を掴んだ。
強くはない。けれど拒めない確かさがあった。
軽く睨んでみせる。
「今日は鍋の気分やねん。……アンタまさか、こんな美人な籠女ちゃんに、一人で鍋さして太らす気か?」
わざとらしいその睨みは、どこにも棘がなかった。
深いところに沈んでいた重さを、くくっと浮かせるための冗談めいた色があった。
屍々子は思わず、息の底から笑いが漏れた。
一呼吸置き、肩の力を抜くように籠女を見返す。
「アタシ……めっちゃ食うから覚悟しとけよ?」
籠女はわずかに目を細め、くすりと笑った。
境内には、二人の間にだけ届くような、静かでやわらかな気配が満ちていく。
その温度が、夜の底に落ちていた屍々子の胸を、そっと持ち上げた。
♦︎
同じ夜のどこかで、その穏やかな空気とは対照的に、景色はふいに切り替わる。
屍々子たちがいる廃神社から、十数キロ東へ離れた場所。
──怪異界
繁華街から外れた裏通り。
積み上がるゴミ袋は裂け、腐敗した匂いが湿った壁面に貼りついている。
人影は一つもない。
ここは、怪異界の中でもとりわけ"汚れ"が沈殿する場所だった。
そこへ、男がひとり転がり込むように走り込んできた。
奥へ奥へと駆け抜ける。だが、行き止まり。
荒い息を吐きながら、壁を振り返った。
「はぁ……はぁっ! クソッ、行き止まりかよ!」
───コツン、コツン。
先ほど自分が逃げてきた方角から、軽い足音が近づいてくる。
男は歯を食いしばり、足音の主へ身体を向けた。
「ちくしょう……こうなったら、やってやる!」
黄色い妖気が、身体の内側から噴き上がった。
次の瞬間、男の身体から噴き上がった黄色い妖気が、腕と脚に纏わりついた。
その妖気が染み込むように沈み込むと、肩口から腕が、太ももの付け根から脚が、ぐぐ、と音を立てて膨れ上がる。
腕も脚も、元の四倍はあろうかという異形の太さへと変貌し、
さらに肥大した手足の指先からは、巨大な爪がずるりと伸びる。
足音は、男の三メートル手前で止まった。
「あっれぇー? もう逃げんのやめちゃった?」
街灯の漏れた光が、その声の主の輪郭を薄く照らし出す。
深紅の髪を高く結い上げたツインテールが、背中までまっすぐ落ちている。
赤金の金具をあしらった鋭い髪飾りがかすかに揺れ、重く下ろした前髪が、その瞳の影をいっそう濃くする。
淡灰の瞳は、扇のようにぱっちりと広がったまつげに縁取られ、無邪気さと棘の両方を孕んでいた。
黒いパーカーの背には、"白蛇"が静かにとぐろを巻く図。
太ももまで落ちる長めの丈の下、網タイツと黒い厚底ブーツが黒い影を切り取り、
その立ち姿ごと、街の闇に鋭い輪郭を与えていた。
女は、男を見て口の端を吊り上げた。
「何急にやる気出してんの? マジきんもー」
その無遠慮な言葉に似合わず、声は驚くほど可愛らしい。
男は吠えるように叫んだ。
それは怒号というより、諦めが滲んだ悲鳴に近かった。
「黙れ!!」
女は楽しげに目を細める。
「私、"黄色"って苦手なんだよね。だって──」
紫色の妖気が、女の両手からゆらりと立ち上る。
「──黄色使う奴って、見た目キモくなるし」
女は手のひらを下に向け、右手を軽く差し出した。
「でも、"あー様の黄色"だけは……だぁい好き」
次の瞬間、彼女の手のひらから、真っ黒な鎖がすとんと垂れ下がる。
女は左手でその鎖を勢いよく引く。
───ジャラジャラジャラァッ。
金属の軋む音が、路地の闇にいやらしく響く。
───ジャキッ。
鎖の先端が地面で跳ね、扇状にパカリと開いた。
露わになったのは、五本の鉤爪。
闇夜に光るその鋭さは、獰猛さを孕んでいた。
女は、恍惚とした微笑を浮かべる。
「お前は"餌"だから殺さず回収しろって、あー様に言われてるから──」
その瞳が、真空を吸うように静まり返る。
「──死なない程度に、殺してあげる」
女の嗤い声だけが、路地裏に絶望を刻みつけた。
──その闇は、貪る──
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