第八話 怪異界
──自分は怪異。
そう自覚した
屍々子はふと自分の右手へ視線を落とす。
「てか──」
眉間に小さな皺を寄せ、屍々子は素直に告げる。
「──右手そろそろキツい」
「あぁ、そやったね! ほな、本題に入ろか」
籠女は申し訳なさそうに眉を下げ、ゆっくりと手を離した。
その仕草はどこか、湯飲みをそっと横へ置くような静けさを帯びている。
「ほんなら屍々子ちゃん。アンタのこの右手、今どんな感覚ある?」
問いに促され、屍々子は掌へ意識を沈めた。
手のひらから立ちのぼる淡い妖気が、空気をかすかに震わせている。
ゆっくり息を吐き、言葉を探す。
「何か、ほんのり暖かい空間に手を突っこんでる感じ、かな。
手のひらから感じたあの独特な熱とはまた違う。」
「右手全体がじんわりしてて、でも……手のひらが一番強い。
そこから離れるほど、暖かさが薄まってく……そんな感じ」
籠女は素直に感心したように目を細める。
「ちゃんと言いたい事はこっちに伝わっとるよ。
せやな。その時に、術を直接使う身体の部分が一番濃く妖気が出る」
「……極端に言えば──」
籠女は屍々子の右手へ視線を移す。
「──今は、アンタの右手が自分で言ってた通り、暖ったかい感じがあるやろ?──」
そして、流れるように屍々子の足元へ視線を落とした。
「──そしたら、今自分の足には暖ったかい感じはあるか?」
屍々子は首を振る。
「いや、そこには何も。右手みたいな感じは、まったくない」
屍々子の眉がわずかに動くのを確認すると、籠女は柔らかく笑みを深めた。
「つまり、今アンタの足には妖力を巡らせてない状態なんよ。」
「妖力を流しとる場所だけが、暖かく感じる。
だから妖気を閉じるんは、その部分から"暖ったかい"を遠ざけるイメージやな」
屍々子は、籠女の言葉を反芻するように小さく呟いた。
「……暖かいを遠ざける」
その呟きを合図にするかのように、籠女は軽く頷いた。
「ま、妖気の閉じ方はいろいろあるけどな。ウチのは鳥籠から妖気を吸い取る感じかなぁ…」
言いながら、籠女は屍々子から一歩だけ距離を取り、そっと左手を伸ばす。
すぐ横で静かに浮かんでいた鳥籠へと手のひらを添えた。
次の瞬間、鳥籠を薄く包んでいた青緑色の妖気が弾けるように短く光る。
鳥籠は一気に縮み、空気を裂くような音を残してペンダントの大きさへと収束した。
小さくなったそれは、籠女の掌にこつんと転がり落ちる。
まるで、彼女の妖力に屈服するように。
籠女は手のひらの鳥籠をひと目だけ確かめると、そこから下がる細い紐を両手で持ち上げ、首の後ろへ回しながら屍々子に言った。
「コツはそんなにいらん。自分の妖気を閉じるイメージが自然と頭に浮かぶハズや」
その言葉が完全に終わる前。
屍々子はすでに目を閉じていた。
──イメージ。……アタシの、妖気を閉じるイメージ。
短い沈黙が落ちた、その瞬間だった。
"
理由も前触れもなく、その"概念"が鋭い光のように屍々子の意識へ刺さり込んだ。
──ッ!?
呼吸が半瞬乱れ、屍々子は反射的に目を見開いた。
すぐに、籠女が駆け寄る。
「どないした!?」
彼女の手が屍々子の右手を包む。
その手から伝わる温度が、現実へと引き戻す。
──あれ? ──何だっけ?
思考の影がひらりと逃げる。
屍々子の視線は宙を迷うばかりだった。
「いや、ごめん。大丈夫」
そう答えた声だけは平静を装っていたが、胸の奥にははっきりとした虚無だけが残った。
それは、目覚めた直後に夢の核心だけが滑り落ちていく、あの感覚に似ていた。
籠女は屍々子の顔色を確かめるように見つめた。
「初めてやったんやから、ちょっと身体がびっくりしたんやろな……」
そう言いながら、籠女はそっと屍々子の右手を手放し、気付く。
「……ん?」
その手からは、妖気を感じなかった。
確信を屍々子に告げる。
「右手、見てみ。……妖気、閉じとんで」
促され、屍々子はゆっくりと指を開く。
先ほどまで手のひらから揺れていた白い妖気が"閉じていた"。が、あまり実感は無い。
「なんか……出来た。かも」
戸惑い混じりの声に、籠女は小さく笑みをこぼす。
「"かも"、やのうてちゃんと閉じられとるで。…こないなんを上出来って言うんや」
屍々子は手のひらを見つめる。
妖気を閉じる時に感じた"何か"。確かに"何か"が自分の中に在った。
思い出せないし確認する方法も解らない。指先からこぼれる霧のように形を失っていく。
追いかけようとする思考が空を掴む。
それでも、不思議なことに、その曖昧さを「まあ、いっか」と片付けてしまえる瞬間がある。
まるで、自分の中にあるはずの焦燥が、ひとつ息をついた拍子に抜け落ちてしまったみたいに。
今事実としてあるのは、自分の妖気が閉じた。それだけ。
屍々子は、ゆっくり顔を上げる。
籠女の瞳がこちらを覗き込んでいた。
その視線に、言葉が自然に流れ落ちる。
「……ありがと」
屍々子の言葉に、籠女は胸を張るようにして笑った。
その表情はどこか誇らしげで、からっとした明るさがあった。
「ふふん、ウチがおらんかったらもっといろいろ大変やったろうねぇ、屍々子ちゃん」
「屍々子でいい」
籠女は瞬きをし、少しだけ眉を上げた。
「ん?」
「"ちゃん"はいらないよ。籠女」
そう言うと、屍々子は少し悪戯そうに微笑んだ。
籠女はその顔をまっすぐに見つめ、ふっと目尻を和らげる。
「アンタ、男より女の子にモテるタイプやろ」
その声音には、からかいと、ほんの少しの親しみが混ざっていた。
屍々子は一度だけ瞬きをし、夜空を見上げた。
「いやまぁ、でもホントにいろいろ助かった」
籠女はゆっくりと目を細めた。
責めるでも、謙遜するでもなく、ただふんわりと受け止めるように。
「そんなんええって、別に大した事あらへん。
ほんで屍々子、これからどないするつもりなん?」
問いかけられ、屍々子は視線を左下へ落とした。
考えるというより、頭の中の"日常"の引き出しをそのまま開けるような仕草だった。
「ん~……とりあえず家帰る。歩いて帰れる距離だし」
血に染まった制服は、ひとまず意識の外に置いておいた。
しかし籠女は、その言葉に眉間を寄せる。
「家? アンタ死ぬ前は人間やったのにどこに帰るん」
屍々子は顔を上げ、思わず籠女の目を見た。
「え……? だからアタシの家」
籠女はその瞳の奥を探るように、静かに言葉を置いた。"真実の温度"を宿して。
「……ここ、"
屍々子の瞳が大きく開かれる。
「……存在しないって、どういう──」
言葉の途中で屍々子の頭をよぎる。
何で"こっち"に人間がいるんだろうなぁ、普通は入って来れねぇハズだが?
思考よりも早く、あの男の言葉だけが鮮やかに蘇る。
籠女の言っている意味を咀嚼する前に、強引に胸の奥から浮かび上がってくる。
屍々子の表情がわずかに揺れる。
その小さな変化を見つめながら、籠女の中でもひとつの答えが静かに形を取り始めていた。
怪異は死ねば、身体そのものが消滅する。
それはこの世界が抱える"必然の摂理"であり、誰一人として逆らえた者はいない。
だが、屍々子はここで確かに殺されているはず。
そして、目の前にはこうして身体を保ったまま立っている。
もしも屍々子の"死んだ"という言葉が偽りでないなら。
辻褄はひとつしかなかった。
「屍々子、アンタまさか……人間のまま"こっち"に来たんか?」
屍々子は短く沈黙し、視線だけを横へそらした。 その動きに、場の空気がわずかに揺れる。
やがて、彼女は肩をひとつすくめ、気怠げに頭を掻いた。
「……あーもう! わっかんねぇぇ!」
気の抜けたその声音は、場の緊張をあっさり裏切るほど軽かった。
普通なら取り乱してもおかしくない状況で、こんな表情ができるのかと。
籠女はその無防備さに、思わず目を見張った。
屍々子はため息をひとつ吐き、自分の中の整理されていない記憶を探るように言葉を続ける。
「怪異界……だっけ? 全然しっくり来てないけど、心当たりがあるとすれば──」
言いかけて、屍々子の表情がわずかに陰った。
その影は、ついさっきまでの軽さとは別の色をしていた。
「──アタシの……お姉ちゃんが消えた時と同じ事が……"ここ"で起きた」
そう告げた屍々子の橙の瞳は、ただひとつの傷のように光っていた。
──後悔の解答は、未だ──
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