第七話 因子と妖気

夜空には、わずかに欠けた月が浮かび、秋の冷たい空気が静かに辺りを包んでいた。


先ほどまでこの場所で繰り広げられた戦いの熱と殺気は、今は微かにしか残っていない。


それでも、夜の静寂の奥には、まだ震えるような緊張が息づいていた。


石畳の隙間からは、ひび割れた影が長く伸び、石灯籠の破片が冷たい月光を反射している。


折れた枝が静かに地面に横たわり、かすかな異音が足元から聞こえるたび、廃れた神社の空気がゆらりと揺れる。


その場所に立つ、二人の女。


屍々子ししこ籠女かごめ


二人が向かい合っていた。


屍々子は眉をわずかに寄せ、口を開く。


「ちょっと待って……いろいろ教えてくれるのはありがたいけど、なんでアタシにそんな構う?」


籠女は微笑むこともなく、顔色ひとつ変えず、鋭い視線を屍々子に突き刺す。


「……アンタに興味があるから」


その声には、先ほどの軽口めいた陽気さは微塵もなく、冷たい刃のように静かに響く。

籠女の隣で浮かぶ鳥籠が、その鋭さに呼応するように軋む。


"問いかけに応えた"、それだけ。


屍々子は、籠女の視線に射すくめられたまま、言葉を失った。

返す言葉を探すよりも早く、胸の奥がひやりと掴まれる。


だが次の瞬間、籠女の眼差しは驚くほど柔らいだ。


先ほどまでの冷ややかさがスッと引き、まるで別の光が差し込むように表情が和らぐ。


「さっきも言ったやろ、そないな妖気で興味持たん方が無理やって」


言葉は静かで、どこか諭すようだった。


屍々子は、籠女の鋭い瞳に潜むものを追いかけようとはしなかった。

踏み込めば何かが軋む。そんな予感が胸の奥で細く鳴り、思考の手前でそっと引き返す。


目の端で屍々子の思考を捕らえたか捕らえぬか、籠女が静かに間を断ち切った。


「とりあえず──」


その言葉と一緒に、籠女はゆっくりと屍々子の右手を取り、その温度を確かめるように軽く包み込む。


籠女はその顔をまっすぐ見つめ、柔らかな笑みを浮かべる。


「──このダダ漏れの妖気、一旦閉じよか」


屍々子は、握られた手の感触に意識を引き戻し、わずかに眉を上げる。


「……閉じる?」


「そう。このまま妖気の出しっぱは、いずれ身体の負担になる」


屍々子は実感の薄さを隠せなかった。


──いまのところ、疲れも痛みもない。


「それに、妖気を垂れ流したまま歩いとるんは、刀を抜きっぱなしで街を歩くようなもんやで」


籠女の声は淡々としながら、静かな冷静さを帯びていた。


「アンタ、まだ自覚ないやろけどな。妖気ってのは"匂い"や。"存在の圧"や。」


「珍しいほど濃い妖気を垂れ流しとったら……寄ってくる、面倒なのが」


籠女はそっと屍々子の手のひらを開かせる。


「……ウチら怪異の身体には──"因子いんし"と呼ばれる存在があるんよ。」


「そこを基点に力が練られ、術や能力が発現する。

その力の対価になっとるんが──"妖力ようりょく"」


声は柔らかいが、言葉の芯は揺るがない。


「ほんで、その妖力を扱う前段階で滲み出るのが……今アンタの手から漏れとる──"妖気"。

本来なら意図して制御するべきもんや」


屍々子はふと視線を落とす。無意識に、右手のあたりへと。


──初めて聞いたはずなのに、変にしっくりくる。


籠女の言葉が、自分の中でふわりと腑に落ちていくような感覚。


屍々子の表情が、戸惑いにわずかな輪郭を帯びた。


霧の向こうに何かが見えかけたような、これまで掴めなかった感覚の端に、ほんの少しだけ指が触れたような、そんな気付き。


「あのさ……」


視線を籠女に戻し、彼女の説明と、自分の体感を照らし合わせるように口を開く。


「死んで目が覚めた後から、ずっと……お腹の少し上あたりかな。そこが妙にざわついてて。

その時から、右手もなんか…不思議な感じがあって……」


屍々子は、初めて感じた"力"の感覚を言葉としてそのまま落とす。


「その不思議な感じを辿るように、わけもわかんないまま手のひらに意識を集中させたんだ。」


「そしたら、そのざわつきが一気に広がって、

身体の中を何かが走るみたいな感覚があって、

……気づいたら手のひらに空気が集まってた」


籠女はゆっくりと頷いた。


「初めて触れた感覚にしては、よう掴んどるほうやで。

ほんで、アンタが言っとるお腹のちょっと上あたり……正解」


指し示す代わりに、籠女は屍々子の胸下あたりへと静かに視線を移す。


「術を使おうとした時、そこがじわっとみなぎる感じ、あったやろ?

そこがウチら怪異の中核に当たる部分やね。」


「アンタの状況で言えば、その辺りから右手にかけて妖力が駆けたイメージで間違いない」


屍々子は目を見開いた。


──そういう理屈か。


死後からずっと続いていた、腹の上あたりに沈む違和感。


手のひらに宿るわずかな熱。


力を使おうとした瞬間、身体の内側を駆け抜けた、あの言いようのない奔流。


散らばっていた感覚がひとつの線で結ばれるのを、屍々子は確かに感じた。


籠女はその表情を見て、口の端をわずかに持ち上げる。


「なんや、頭ん中に何か落ちたか?」


籠女は一拍置いて、そのまま言葉を継いだ。


「ただし、因子は臓器や器官とは違う。

物理的に触れられるようなもんやない。そこは誤解せんといてな」


そう言うと、籠女は視線をふっと上に滑らせ、言葉を探すように小さく息をついた。


「どう言うたら伝わるかな……。

スピリチュアルに聞こえるかもしれんけどな、因子は"魂"に紐づいとるんよ。」


「身体にはあるけど、実際には視認できない。せやけど、確かにそこを中心に力が巡る。

そういう不思議なもんなんや」


籠女の言葉を聞きながら、屍々子はゆっくりと息を吸った。


胸の奥でひっかかっていた何かが、ようやく形を得ていく。


──アタシ、怪異なんだ。


それはもう、避けようもなく、自分の輪郭に貼りついている。


拒否も、恐れも浮かばない。

そんな感情は、最初からどこにもなかった。


ただ、今日この廃神社で起きた出来事が、

あまりにも唐突で、あまりにも当たり前のように、自分の日常へと割り込んできた。


その"現実の押しつけ方"に心が追いつかなかっただけ。


そして、籠女の言葉がただの説明として頭に届いただけじゃない。


語られたすべてが、自分の身体の感覚ときれいに噛み合って、ひとつの「現実」として背骨を通って落ちていく。

あのざわつきも、熱も、奔流のような感覚も。


全部が「怪異」であるという枠に収まり、ようやく説明がつく。


音もなく崩れた常識の破片を拾い集めるみたいに、屍々子は静かに状況を受け入れていく。

 

そうなってしまったのなら、それは仕方ない。


 

──ここから先の在り方は、アタシが選ぶ。



その境界線が、屍々子の内側ではっきりと引かれた。


籠女の視線が、屍々子の瞳に宿るわずかな変化を捉えた。


「ん? なんか目つき変わったな」


屍々子は口元だけで笑う。


「さぁ、気のせいじゃない?」


その笑みは、先ほどまでの迷いをひと欠片も含んでいなかった。



──覚悟の扉が、ゆっくりと開く──

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