第五話 籠女

夜の帳が降りた廃神社の上を、月が静かに見下ろしていた。


女は微笑んだまま、鳥居の前に静かに立つ。


「見えてんで、パンツ」


白いワンピースの裾が、夜風にひらりと揺れた。


青黒い髪を黒いヘアゴムで高くまとめたポニーテールが、夜気の中でゆるやかに靡く。


藍に沈んだ瞳がわずかに光を返し、
屍々子ししこへ向けられた視線は、夜の底に引き込むような深さを宿していた。


胸もとで、小さな鳥籠のペンダントが月光を受けて淡く光る。


五百円玉ほどの大きさの白い鳥籠が、細い紐に吊られ、空気の中を漂うように揺れていた。

その中は"空なのに、どこか息づいているように見えた"。


足元の白いサンダルはひび割れた石畳に触れ、夜の冷たさを静かに受け止めていた。


屍々子はしゃがんだまま女を見上げ、口を開く。


「アンタ、だれ──」


言葉の終わりを待たず、女が屍々子のスカートの方を指さす。


「白!」


屍々子は反射的に立ち上がり、顔をしかめた。


「だぁもう、うるせぇな! 誰も見てないからいいんだよ!」


女は微笑んだまま、首を小さく傾ける。


「ウチがおるけど?」


その静かな一言に、屍々子は眉を寄せてため息をついた。


「はぁ、アタシに構うな」


女はくすりと笑い、サンダルの音を響かせながら近づいてくる。


「ふふん。そんなん言われてもなぁ、血まみれの制服で"構うな"は無理やろ」


サンダルが砂を踏む音が、夜の境内に冷たく鳴り響く。


「それにな。アンタの妖気……変やもん。

そないダダ漏れで"ほっとけ"は通らんで?」


女の瞳が、ほんのわずか鋭さを帯びた。


さっきの男も言っていた。


"異質"だと。


女は二、三歩先で足を止め、屍々子の手にまだ立ちのぼる妖気を見つめる。


「その妖気、えらい真っ白で"赤ん坊"か思うたわ」


屍々子が目を細めた。


「赤ん坊……?」


女は左手を差し出した。


「そっ。赤ん坊。

なぁ、ちょっと手ぇ見せてみ? 痛くせんから」


屍々子は女を見つめる。


──敵意は感じない。


女は首をかしげて「ん……?」と不思議そうに見つめる。 


すぐにハッとしたように顔の前で手を合わせ、少し困ったような笑みを浮かべた。


「ごめんごめん! ウチは籠女かごめ。名乗るの遅なってごめんなぁ!」


屍々子は一瞬、眉を上げる。


──急な自己紹介に、少し驚いた。


「……屍々子。

アタシもごめん、そういうつもりじゃなかった」


籠女は目をほんの少し見開き、驚きを見せた。

すぐに表情を和らげ、くすりと笑う。


「ん~? 結構ツンツンなんかなぁって思うたけど、意外と素直なんや?」


「ほっとけ」


屍々子はそう言うと、籠女に右手を預けた。


籠女はその手を下からそっと受け止め、手のひらを覗き込む。


「ホンマに赤ん坊やねぇ……。

こんなんで術使えてるんが不思議なくらいやわ」


「その、何? 妖気とか色とか全然わかんないんだけど」


籠女は思わず目を丸くし、屍々子の顔を見る。


「へ……? アンタ今までどうやって生活してたん?」


「どうって別に……死んだらその妖気?ってのがアタシの手から出るようになってた」


「死んだって、誰が?」


「さっき、アタシが」


ひとつ、空気が固まった。


籠女の指先に、わずかに力がこもる。


「はぁ!? だってアンタ、今ウチと喋っとるやん! どないなっとんの…?」


その時、───バキッ。

屍々子の右側、拝殿の奥で木が砕けるような音が響いた。


屍々子と籠女が同時に顔を向けた、一瞬。


───ビュォンッ。


拝殿の闇の中から、異様に長く伸びた腕が、風を裂いて屍々子へ向かった。


反射的に身をひねり、屍々子と籠女は左右へ散る。

腕は空を切り、そのまま屍々子の背後にある石灯籠を乱暴に掴んだ。


掴んだ瞬間、腕は急激に縮みはじめる。


とてつもない速さで収束し、先ほど屍々子が殴り飛ばした男が、拝殿の奥から弾かれたように飛び出してきた。


男は手の指先を立て、迷いなく屍々子へ向かう。


その時、籠女の声が冷たい威圧感を放つ。


「今、ウチが話とるやんなぁ」


その瞬間──白い手が数本、音もなく伸びた。

男の両腕と両脚を正確に掴み取り、動きを奪う。


「おすわりしとき」


白い手が男を前方へ引き倒し、地面に叩きつけた。


───ズンッ。


鈍い衝撃が境内に響き、砂がふわりと舞い上がる。


籠女の一連の動作に、屍々子は顔をしかめ、声を漏らす。


「こっわ……」


白い手の正体。


先ほど、籠女の胸元で月光を受けて揺れていた小さな鳥籠は、いつの間にか形をほどき、姿を変えていた。


籠女の隣に、直径一メートルほどの白い鳥籠が揺らめくように浮かび、青緑色の妖気を纏う。

格子の隙間から青白い手がいくつも覗き、ゆっくりと蠢いている。


その鳥籠から伸びた手が男の四肢を抑え込み、逃れようとする力ごと沈めていた。


男が吠える。


「ガルルルル!」


その声には、理性を感じない。

白い手は、抵抗に合わせてじわりと力を強め、男の身体を地面に沈めていく。


白目をむき、鋭利な歯を尖らせる。

男の見た目は変わらないが、先ほどの風貌とは打って変る様。


籠女は淡々と、その変わり果てた男を見つめた。


──この男、侵色しんしょくが始まっとる。


「こないなったら、もう元には戻れへんなぁ」


屍々子は男の顔を見下ろし、低く呟いた。


「コイツ、さっきと様子が全然違う」


籠女は屍々子を一瞥した。


「さっきと? なんや知り合いか?」


屍々子は籠女を見て、ムッとした顔を作る。


「アタシの知り合いにこんな奴いてたまるか! アタシはコイツに一回殺されたの!」


籠女は男の右手の血に気づき、屍々子の制服の胸元にある血痕へと視線を移す。


「ふーん、なるほど。

それでアンタの胸んとこに血ぃ付いとるっちゅうわけか。ははーん、理解理解」


「でもアンタが死んだってイマイチ信じられへんねん。

だって、怪異は死んだら普通は肉体がうなるねんで?」


屍々子は怪訝そうな表情を浮かべた。


「ちょ、ちょっと待って。かいい…って?」


籠女は屍々子をじっと見つめ、首を傾げる。


「……? 屍々子ちゃん、アンタの事よ。怪異って。

ウチもアンタもこの男もぜーんぶ怪異。逆に怪異以外何があんねん」


男に言われた一言が脳裏で反射する。


お前…怪異か?


一拍、息が止まったように静止した。


「……怪異?」


口が勝手に動いただけで、意味はまだ半分も掴めていない。

視線だけが落ち着かずに揺れる。


「アタシ、人間じゃない……?」


その場の空気だけが先に理解して、屍々子だけが取り残されているようだった。


籠女の眉がぴくりと跳ねた。



「人間……?」


その声には、ほんのわずかな警戒が混じっている。


籠女は屍々子の胸元を鋭い視線でなぞった。


「……なんかアンタ、いろいろワケありみたいやね」


そう口にすると、その鋭い視線が一瞬で消えた。

籠女の目にはまるで何事もなかったかのような柔らかさが宿った。


屍々子の顔をちらりと見やり、籠女の目には柔らかな微笑みが浮かぶ。


「ま、後で詳しく話聞いたるわ──」


それから男へ視線を移した。


「──まずはこの獣さんを何とかせんとやな」


言葉の余韻が消える頃、周囲の気配がふっと遠のいた。

穏やかな調子に反して、籠女の静けさは水面の下に潜む刃のように、無音のまま鋭かった。




──その疑惑は、形を持ち始めた──


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