第三話 違和感の正体
月明かりが廃神社の境内を淡く照らす。
血に染まった砕けた石畳の上、少女──
制服の胸元には、丸い血の跡。
黒いカーディガンの裾が風を孕み、月光の中でゆらりと揺れた。
身体の内側に異様な感覚がある。
今まで感じた事がない不思議な感覚。
熱でも痛みでもない、もっと根の深い違和。
なのに、不快じゃなかった。
まるで昔から"そこ"にあった、自分の呼吸みたいに自然で、怖いほど馴染んでいた。
目の前の異形。
人間の形をしたそれが、口の端を吊り上げて笑う。
「俺がこの右腕で、お前のその胸に穴開けた感触はよぉ──」
男の右腕が、蛇のようにしなって地面に垂れる。骨が鳴る。肉が軋む。
伸縮するたび、空気がざらつくような音を立てた。
「──嘘だったってことか?」
屍々子は、緩く目を細めた。
「……何だその手、気持ち悪ぃ。
よかったな、JKにセクハラできて」
その声に、怯えの影はない。
男の顔が歪む。怒りの熱が肌で伝わる。
「答えになってねぇよ! ガキが!!」
叫びと同時に、右腕が鞭のように振り抜かれた。
風が裂ける。音が一瞬遅れて耳に届く。
屍々子は反射的に地を蹴った。
男との距離は八メートル。
視線を逸らさず、真っ直ぐに走る。
低く身を沈め、男の右腕の下を抜け──狙うは腹。
拳を引く、下段の構え。
だが男は笑っていた。
「甘ぇな……このまま後ろから突き刺してやんよ!」
男の腕が縮む。
刃のように尖った指が屍々子の背中を狙って。
屍々子の背中に男の指先が届く直前、
───ズザァ。
屍々子は滑り込むように股下を抜けた。
男の虚を突く。
「なにッ!?」
勢い殺せぬ男の右腕が自分の顔面を打ち据え、男の身体がのけぞる。
呻く声。空気の波。
後ろから声。そして圧。
「甘ぇのは──」
男が振り向く。
零距離。顔の前に拳があった。
「──どっちだよ!」
───ドゴォッ!
拳が頬を抉り、空気が弾ける。
男は前へ体勢が崩れる。
「クソがァ!」
男は即座に伸ばした左腕を後ろにしならせ、背後の屍々子へ飛ばす。
左側から、男の腕が迫る。
屍々子は自身の左腕を盾に、攻撃を受け止めた。
「……ッ!」
強い衝撃。
その勢いで、屍々子の体が六メートルほど吹き飛ぶ。
地面を削る音とともに、砂が舞う。
着地の瞬間──すでに次の右腕が迫っていた。
「ちっ……!」
咄嗟に身をひねり、かわす。
男の指先が頬を掠め、温かい血が伝う。
男の嗤い声が静寂を裂く。
その声には、死の匂いと冷たい殺意が混ざっていた。
「惜しかったなぁ、もうちょっとで首切れたのによぉ……だがな──」
男はそのまま右手で屍々子の左肩を掴んだ。
鋼のような力が肩を締め上げ、骨の隙間までじわりと圧迫する。
「──俺が直接テメェの首を喰いちぎればいいことだよなぁ!」
───フォンッ。
更に、男は畳み掛けるように左腕を振り下ろす。
屍々子は反射的に頭上で両腕を交差させ、男の左腕を受け止めた。
「……くっ!」
──重い。
衝撃が両腕を貫き、鈍く痛む。
重みが、まるで金属の塊を押し付けられたように腕から肩に流れる。
力を抜けば一瞬で地へ叩き伏せられる。
「ケケケ! おい女ァ、動けねえよなぁ? さっきみてぇに俺をぶん殴ってみろよ!」
屍々子は男を睨んだ。その瞳には、一片の揺らぎもない。
「お前……アタシに殴って欲しいって……ドMか?」
一瞬、空気が止まった。
次に、男の青筋が膨れた。
「ちっ、クソガキが……望み通りもういっぺん殺してやるよ!!」
男は振り下ろした左腕の軌道をわずかに外し、交差していた屍々子の左手首を掴んだ。
上からの圧が両腕に沈み込む。
押し返せない。重さそのものが意志を持っているかのようだった。
その瞬間──男の両腕が縮む。
しなったバネが解き放たれるように、男の身体が屍々子へ跳ねる。
───ビュンッ!
殺意が形となり、空気を裂いて突っ込んでくる。
屍々子はずっと考えていた。
死んだ後、起き上がってからずっと感じている手のひらにある"熱"。
体温的な熱じゃなく、直感的に"力"のように思えるこの熱。
──わかんねぇ。どう使えばいい。
男が迫ってくる。
もう思考を並べる余裕はなかった。
屍々子は、ただ手のひらへと意識をぐっと絞り込む。
身体の奥底──骨のさらに内側から、
微細な"何か"が湧き上がり、血流とは別の経路を通って全身を巡るような感覚が走る。
──っ!?
手に違和感。
──今、アタシの手のひらに何か触れた?
物体に触れた感覚ではない。
何か、形がないもの。
風、──否。
『空気』
「死んどけやぁ! 女ぁ!!」
男は大口を開けた。鋭利な歯を剥き出し、屍々子の首に狙いを定める。
屍々子の叫びが境内の空気を震わせた。
「さっきから、うるせえなぁ!!」
その瞬間、───ボンッ!
屍々子の手のひらから破裂音。
その衝撃が、屍々子の腕を通じて跳ね返る。
勢いが、交差していた両腕を振り払い、掴んでいた男の手を弾き飛ばした。
──これで動ける。
反撃の狼煙。
屍々子の瞳が、影を裂く。
軌道は変わらず、真っ直ぐこちらへ男が飛んでくる。
──さっきの要領。
屍々子の右の手のひらで、空気が圧縮される音。
───キュゥゥゥ。
真っ直ぐ目を据え、そのまま拳を強く握り、振りかぶる。
男が間合いに入った。
屍々子が踏み込む。
瞬間、圧縮した空気が爆ぜる。
唸り、周囲の空気が畏怖する。
「ブッ飛べ!!」
───ドンッ!!
拳が放たれる。
空気が弾け、圧が反転。
音より速く、拳が男の顔面を撃ち抜いた。
衝撃が境内を震わせ、木々がざわめく。
男は数メートル先の大樹に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
静寂。
信じられない威力に、屍々子は少しだけ自分が怖くなる。
「えぇ……アタシ、ヤバくね……」
屍々子はふと、自分の右手を見た。
「ん……? なんコレ?」
手のひらから、白い"湯気"のようなものがふわりと立ちのぼっている。
淡く、静かに光を帯びるその気配。
それは、この世界で屍々子自身に示された、異形としての"始まりの色"だった。
──違和感は、一番最初の味方だった──
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