最終話

 卒業式の朝は、これ以上ないほどの快晴に恵まれた。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて、優は目を覚ました。体は驚くほど軽い。ベッドから体を起こすと、ハンガーにかけてあった制服へ着替えた。このブレザーに袖を通すのも、今日が最後だ。いつもの様に鏡の前でネクタイを結ぶ。それは毎日のように繰り返してきた朝の儀式のはずなのに、今日はどうもうまくいかない。何度もやり直した後、少し首元がきついくらいにネクタイを結んだ。


 両親と朝食を摂る最中、三人が交わす言葉は少ない。この特別な日の特別さを上手く言葉にできなくて、交わされた会話はありきたりだった。式は何時に終わるのか、とか、昼食は家で食べるのか、とか。会話が途切れた沈黙の中で、テレビのキャスターが朝のニュースを伝える声と、シリアルをざくざくと咀嚼する音が、やけに大きく感じられた。


「じゃあ、行ってきます」


 朝食を摂り終わると、優は少し早めに家を出ることにした。玄関まで見送りに来た父と母は、卒業を迎えた一人息子を感慨深く見つめている。


「……ほら、ネクタイが少し曲がっているよ」


 母がネクタイを直そうとする。玄関の鏡を見ると、優には曲がっている様に見えなかった。優は怪訝な顔をしたが、ネクタイをいじる母に身を任せた。母にとっては、ネクタイはただの口実だったのだろう。今家を出て、帰ってくる頃には、大人への階段を1つ登っているであろう、一人息子。そんな愛する我が子が家を出る前に、少しでも触れておきたかったのだ。


「ユウ、卒業おめでとう。いってらっしゃい」


 父と母に送り出され、優は家を出た。

 

 外へ出ると、春の香りを孕んだ暖かな空気が頬を撫でた。足取り軽く、通学路を歩く。体の一部の様に履き慣れたローファーで、アスファルトを踏み締め続けた。


「おはよう、ユウ君。卒業おめでとう!」

「おはよう、リカ。卒業おめでとう」

 

 優は校門の手前で合流した梨花と肩を並べて、式が行われる講堂へ向かった。


 ***


 卒業式は粛々と、あっけないくらい淡々と進んだ。講堂に響く校歌、校長の祝辞、そして卒業証書の授与。


 式が終わると、優たちは最後のホームルームを行うために、慣れ親しんだ教室へ戻った。担任の先生が涙ながらに言葉を送ると、ホームルームも終わり、クラスメイトたちが別れを交わす時間となった。寄せ書きを書き合ったり、記念に写真や動画を撮り合ったりしている。


 そんな、切なさと寂しさが混ざる喧騒の中、一人のクラスメイトが優に近寄った。


「――なあ、朝比奈。……昨日の約束、覚えてるよな?」

「うん、もちろん。……一曲だけ、歌ってもいいかな」

 

 優がそう伝えると、教室はしんと静まり返った。優は、手にしていた卒業証書の筒を机に置くと、ゆっくりと教壇の前へ歩み出た。

 少し華奢な長身に、クラス中の視線が集まる。


 優は、クラスメイトたちを見渡した。


「……みんな、卒業おめでとう。みんなへの感謝を込めて、歌わせてください。少し、古い曲だけど……『仰げば尊し』です」


 優は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 教室の空気は、波の立たない水面みなもの様に静かだ。

 その空気を肌で感じた後、優は第一声を放った。

 

「――仰げば、尊し……」


 優の肉声が、教室の空気を震わせる。

 その緩やかな旋律と、師や友への感謝を込めた歌詞に、想いを乗せる。

 その場にいた全ての者が、優の歌声に引き込まれていく。

 教室は、色彩豊かな響きで満たされた。

 

 その歌声は水面みなもを揺らす波紋の様だった。うねるように大きな波と、穏やかで小さな波。

 優しくて力強い波紋の連続が、一人ひとりの肌を震わせる。

 大きな波は聴く者の全身を飲み込み、ぐらぐらと感情を揺さぶった。

 小さな波は、暖かい何かをそっと胸の奥に残していった。

 優の創る楽曲世界へいざなわれたクラスメイトたちは、幻を視た。


 それは、煌めくような記憶の断片だった。喜怒哀楽に彩られた、高校生活の思い出たち。


 サッカー部の男子は視た。ベンチ入りすらままならず、観客席から試合を見守るだけの辛い日々。初めてスターティングメンバーに名を連ねた時の高揚感、責任感。そして、死力を尽くして走っても勝利には届かなかった、最後の公式戦。あの日、涙が止まらなかった理由は、未だにわからない。負けた悔しさなのか、競技生活が終わった寂しさなのか、苦楽を共にしたチームメイトへの感謝なのか。その全てが思い出され、堪え切れずに嗚咽を漏らした。


 文芸同好会を創った女子は視た。気心知れた読書好き同士で、同好会を作ろうと決めた日。先生に掛け合って、古びた小さな部室を確保して。毎日のように集まって、好きな作品を語り合ったり、自作の短編を書いたり、読み合ったり。下校時刻が来て校舎を追い出されても、近所のファミレスで語り続けた日々。その、暖かな記憶。彼女はハンカチで顔を覆い、肩を震わせた。


 視た幻の全てが、高校3年間のかけがえのない思い出だった。


 全ての歌詞を歌い上げたあと、声は緩やかに減衰してゆく。歌い終えた優は、ふう、と静かに息を吐いた。教室は、余韻の静寂で満たされている。優は少しだけ顔を赤らめ、深々と一礼した。


「……最後まで聴いてくださり、ありがとうございました」


 そう言い終わると共に、暖かな拍手が巻き起こった。

 門出を迎えた者同士で送り合う、祝辞のような拍手だった。


 ***


 四月三日、入学式の日。


 新入生なら誰しも、入学式には期待と不安が入り混じるものだ。しかし、朝比奈 優の胸は、これから始まる大学生活への期待で満たされていた。


 上野の森が、通学路だった。満開の桜が舞い散り、地面は淡いピンク色の絨毯で覆われている。不忍池から吹く風が、真新しいダークグレーのスーツを揺らす。 優は一人、東京藝術大学の正門へと続く道を歩いていた。


 正門に掲げられた「入学式」の看板の前で立ち止まった。ふと、ポケットの中でスマートフォンが震える。松田からの短いメッセージだった。

 

『入学おめでとう。……さあ、第2章を始めましょう、ユウ君』


 少し微笑んだ後、スマホをポケットにしまった。

 正門を見渡すと、深く、春の空気を吸い込んだ。


 優は一歩を踏み出し、その門を潜った。

 背中には、世界に一つだけの翼。

 その翼は春の陽光を浴びながら、伸びやかに羽ばたいていた。



 令和のカストラート 了



—————————

読者の皆様へ。

『令和のカストラート』、最後までお読み下さり、ありがとうございました!

面白かった!と思って頂けたら、⭐️1つでもフィードバック頂けると、励みになります!


『あとがき』っぽい文章をここで書こうと思っていたのですが、長くなりそうなので次のエピソードに別出しています。本作の執筆の動機などを綴っています。もしご興味ありましたら、お読みください!


繰り返しとなりますが、最後まで拙作にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。また、別の作品でお会いできる日を楽しみにしております。


ages an

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