第45話
三月の柔らかな日差しが、教室の窓ガラスを透かしている。埃の舞う教室に、穏やかな光を投げかけていた。
そこにあるのは、どの高校でも繰り広げられる、ありふれた光景だった。騒がしくも愛おしい、卒業間近の若者たちだ。
「――だからさあ、初心者コースが充実してるところじゃないと俺は遭難するって言ってるだろ! もう3月末だろ? 山の上のほうしか雪がなくて、上級者コースしか開いてない、とかマジで勘弁だからな?」
卒業旅行の行き先を探す最中に、慎二が声を荒らげた。机の上には、スキー・スノーボードツアーのパンフレットが所狭しと並べられている。
「大丈夫だよ、シンジ。野沢温泉スキー場なら、ゴンドラ乗った頂上付近に初心者コースがあるらしいよ? コースも広いし、スクールも充実してるから。僕もスノボは初めてだけど、一緒に転んでれば怖くないさ。もし心が折れたら……一緒に雪だるまでも作ろう」
優は屈託なく笑いながら答えた。
その声は、もはや低く押し殺した「演技」ではない。高く透き通った地声。奇跡の歌声を紡ぐ、朝比奈 優の『ありのまま』の声だった。周囲の生徒たちが、その高く美しい声に振り返ることもあったが、優はもう気にする様子もなかった。たとえ変に思われようとも、この声を愛してくれる人は沢山いるし、自分自身も、この声を気に入っている。そんな優の振る舞いは、溌剌とした清々しさを感じさせた。
「あ、このホテル、温泉が良さそうだよ。小さい露天風呂付きの部屋があるって」
真由美がパンフレットの端を折って提案する。
「すごい、最高! お部屋に露天風呂があるなんて……! 入り放題ってことでしょ? 滑った後の温泉とか、想像しただけで溶けちゃいそう! ……ユウ君はどんなホテルがいい?」
梨花が優の顔を覗き込む。優は、梨花と一緒にパンフレットを指で辿った。
「うーん、僕は移動が楽なのがいいかなぁ。夜はお土産買ったりするでしょ? いろんなお店を見て回れるところがいいな」
「おぉ、それも楽しそうだな! お土産屋も調べとこうぜ!」
慎二が優の肩を叩く。優は、あはは、と明るい声を上げた。互いに話し合い、笑い合うその姿は、どこにでもいる普通の高校生の男子に見える。
その『普通』とは、かつて優の憧れだった。転校初日の通学路、夏休みの思い出で盛り上がっていた高校生たち。その姿を見て抱いた、憧れ。自分の思いをありのままに口に出して笑い合うことができたら。どんなに楽しいだろうか。この日常は、どんな彩りを持つのだろうか、と。その憧れの姿は、もはや優の日常となっていた。
そんな四人の様子を、離れた席から窺っていた一人のクラスメイトが、意を決したように近づいてきた。
「……あの、朝比奈君」
優が顔を上げると、そこには以前から、優に親切な「距離」を置いていた女子生徒が立っていた。
「どうしたの?」
優の問いかけに、彼女は少し頬を赤らめ、躊躇いながらも口を開いた。
「……その、ずっと気になってたんだけど。朝比奈君の声、最近すごく……なんていうか、その……。昨日、ネットで話題になってる "You"の動画を観たんだ。……朝比奈君、もしかして、"You"……なの?」
その言葉に、教室の空気が一瞬で静まり返った。皆、心のどこかで感じていた疑問。あまりにも似すぎている。奇跡の歌声と、目の前の少年の声。優は梨花と顔を見合わせた。梨花は、悪戯っぽく唇に人差し指を当てている。
優は、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「……それは、言えないんだ。プロジェクトの契約、厳しいからね」
肯定も、否定もしない。
けれど否定ではないその言葉に、教室中にどよめきが走る。無理もない。紅白歌合戦への出場まで果たした、今や国内トップクラスの人気を誇るVtuber "You"。その正体が、自分たちのクラスメイトかもしれないのだ。そのマンガの様に現実味がない展開に、教室の空気は期待と好奇心で満たされている。
優はその空気を肌で感じ取ると、戸惑うような、はにかんだ表情を見せた。そして、少し迷ってから控え目に告げた。
「でも……迷惑じゃないなら、だけど。明日の卒業式の後、この教室で、一曲だけ歌わせてもらってもいいかな? ……転校してきてからずっと、みんなにはお世話になったから。僕からの挨拶として、さ」
「えっ……本当に!?」
クラスメイトたちが身を乗り出す。その反応を待っていたかのように、梨花が力強く同調した。
「絶対聴いたほうがいいよ! 私が保証する! ユウ君の歌は、本っっ当に凄いんだから!」
梨花の宣言に、教室は期待と興奮に包まれた。
***
その日の夜。優は自宅の防音室にこもっていた。
明日、卒業式の後。クラスメイトの前で歌うと宣言したその曲を、繰り返し歌っている。その歌声は、緊張でわずかに震えていた。
"You" としての活動は、ずっとデジタルな器を通していた。マイクの向こう、ネットの向こう。優の歌声はMP4形式に変換された音声データとして、リスナーへ届けられていた。
けれど、明日は違う。 ネットの向こう側の誰かへ音声データを配信するのではない。 朝比奈優という生身の男性として、その肉声で、慣れ親しんだ教室の空気を震わせるのだ。同級生たち一人ひとりの肌へと、鼓膜へと、自身の想いを届けるのだ。
――僕は明日、初めて『僕』として歌を届けるんだ。
緊張は隠せない。男性であるこの身体で、女性のように高く美しい声で歌うのだから。世の中の『普通』と相容れない、異質な存在と思われても仕方ない。
それでも、優は願っていた。この身と共に、歌を届けたいと。クラスメイトたちへ感謝を届けたい。それは本心だ。一方、こうして歌うのは自分のためでもある。そう考えていた。
たとえ、『普通』とは相容れない歌声だとしても。その歌がクラスメイトたちの琴線に触れて、少しでも彼ら・彼女らの心を動かすことができたなら。それは、この身体と声に対する、何物にも代え難い餞別となるのではないか。
『普通』ではないかもしれない自分。ネットでの活動で得た、デジタルな繋がりだけが拠り所だった自分。そんな自分でも、これからは生身の身体と声で、リアルな世界と、繋がりを作っていける。その証明になるのではないか。
その証明を、この高校生活の終着点としたい。
その証明を、これからの大学生活の序曲としたい。
優は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。喉の奥に眠る、透明な輝きを感じる。
優は、小さくハミングを始めた。
その清らかな響きは静かに、けれど確かに、夜の帳を揺らしていた。
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