第44話
二月下旬の上野の森は、凍てつくような静寂に包まれていた。
いよいよ、優の実技試験が始まる。その試験は、3回に分かれて実施された。
試験会場へと続く赤煉瓦の道は、受験生たちのピリついた緊張感に支配されている。かつて下見で訪れたときには、穏やかに見えた木々。今日は、鋭い槍のように冬の空を突き刺していた。
試験場の入口には、いくつも注意書きが貼られている。
『受験生以外立入禁止』『指定場所以外での発声・練習禁止』『録音・撮影禁止』
無機質な文字の羅列が、『ここは受験生たちを秤にかける場である』と告げていた。控室には、受験生たちが並んでいる。その緊張した表情は、戦場へ送られる兵士を思わせた。その誰もが、喉を労わるように沈黙している。あるいは、無音の呼吸を頼りに身体を暖めている。その兵士たちの中、優は呼吸を深くするように努めていた。
壁際の掲示板に、係員が紙を貼り出した。ざわり、と空気が揺れる。受験番号ごとに指定された、当日の課題曲だった。
優の番号――三〇一三番。
そこには、優が事前提出した8曲のうちの4曲が、事務的に選定されていた。
(……来た)
指先が冷え、喉の奥が急速に渇いていく。心臓が、耳の裏で早鐘を打っていた。 選定された4曲から、日本語曲を1つ、外国語曲を1つ選んで歌う形式だ。優は一度だけ目を閉じ、今日の身体の状態を深く探った。
――息が、軽い。声帯が敏感だ。高音の透明度は出る。でも、踏ん張るべき低音は、まだ不安定だ。
今日の状態を鑑みて、歌う曲を決めた。
「……受験番号三〇一三番、朝比奈優さん。第1回、どうぞ」
誘導の声に、優は立ち上がった。
重厚な扉の向こうは、冷たく乾いた空気に満ちていた。高い天井、中央に鎮座するスタインウェイのグランドピアノ。数名の試験官が机を並べ、審判員のように座っている。ピアノの横には、伴奏者がいた。優は一礼し、試験官のほうを向いた。
「受験番号と名前、曲名を言ってから始めてください」
事務的な声が、ホールの広い空間に反響する。優は口の中の乾きを飲み込んだ。
「……受験番号三〇一三番、朝比奈優です。第1回、課題選択曲より――」
伴奏者が軽く頷く。優は、一拍だけ、深く確かな呼吸を見せた。
歌い出す。
優の放つ日本語の一音一音が、ホールの空気に吸い込まれていく。
試験官たちの、刺すような視線を感じる。
息の流れも、子音の響きも、全てが顕微鏡の下に晒されている気がした。見知らぬ他人に、生身で歌うのは初めての経験だった。しかし、それを気に留める余裕は無い。これは演奏や表現ではない。厳正なる「試験」なのだ。
歌っている途中で、中央の試験官が小さく手を上げた。
「……はい、結構です。次の曲をどうぞ」
――打ち切られた!?
強制的な中断に、優の心臓が跳ねる。だが、同時に父の助言が脳裏をよぎる。
――歌唱試験が、途中で打ち切られることはよくある。低評価と決まったわけじゃない。『もう十分に聴かせてもらった』ということだと思いなさい。決して、焦ってはいけない。
優は表情を崩さず、一礼して次の曲名を告げた。外国語曲。音が変わる。響きが変わる。イタリア語の母音に合わせて、口の形が変わる。
歌い終えたとき、ホールには試験官のペンの音だけが残った。 優は深く一礼し、退出した。控室に戻ると、アドレナリンが引いたせいか、膝がわずかに震えていた。
数日後の、第2回試験。上野の森の寒さは変わらないが、優の身体には熱がこもっていた。今日歌うのが、自由曲だからだ。 ここだけは、自分で選べた。ここだけは、「僕の物語」で勝負できる。
「……受験番号三〇一三番、朝比奈優さん。中へ」
扉の向こう、同じ空気。だが今日は、優自身の心持ちが違った。舞台中央に立ち、試験官を真っ直ぐに見据える。
「……受験番号三〇一三番、朝比奈優です。ニコラ・ポルポラ作曲、歌劇『ポリフェーモ』より、アリア『Alto Giove』を歌います」
数人の試験官が、僅かに眉を動かした。声種の欄――ソプラノ。その単語と目の前の少年の身体が、噛み合わないことへの戸惑い。伴奏が始まる。優は目を閉じ、肺の隅々まで空気を取り込むように息を吸った。
(――僕は、ここにいる。僕は、呼吸を取り戻したんだ)
最初のフレーズを放つ。
「――Alto……」
その一音が、空間を支配した。それは、現代のカウンターテナーが使う「作られた高音」ではなかった。男性の肺活量に支えられた、力強く、艶やかな響き。
弱音から強音へ、強音から弱音へ――。 音の芯が少しもぶれないまま、息の弧だけが広がっていく。
祈るような想いが込められた、Messa di voce (メッサ・ディ・ヴォーチェ)だった。
この曲は、技巧だけでは終われない。祈りであり、感謝だ。過酷な運命の中で、再び「呼吸」を与えられた者の、切実な告白なのだ。
中央の試験官は、躊躇していた。この受験生の歌唱技術は、十分に把握した。演奏を止めるべきだ。しかし、止められなかった。
その歌声には無限の伸び代が感じられて、『聴きたい』という衝動に抗えない。
――最低限の基礎はあるが、まだ荒削りだ。現時点で、より高い技量を持った受験生は他にもいる。……だが、この少年の声はどうだ。男性の肺活量の下支え、少年の様な透明感、女性の様な艶やかさ。
――教えたい。指導したい。この少年を教え導いた時、どんな歌手へと育つのか。想像もつかない。
そうした躊躇の間に、優は歌い終えた。ホールに静寂が訪れる。
試験官の葛藤を知らぬまま、優は静かに一礼して退出した。
さらに数日後、第3回試験。
試験会場はずっと小さく、密閉されていた。机、椅子、譜面台。至近距離に座る試験官。手渡されたのは、一冊の分厚い本だった。ページの角が擦り切れている。何十年もの間、何百人もの受験生たちが握りしめ、その汗が染みたような紙の匂いがした。
「ここを、歌ってください」
試験官が楽譜を指で示す。優は一度だけ譜面を見て、頭の中で垂直に音を立ち上げた。
(……いける。音程、息の割り振り、跳躍の支え)
与えられた開始音。優はその高さを的確に身体に落とし、歌い出した。
コールユーブンゲンの旋律は、歌う者の「基礎」を容赦なく暴き出す。音程が数ミリ揺れれば、一発で分かる。拍がズレれば、息が短ければ、全てが数字のように暴かれる。だが、優は機械式時計のような精密さで、音符を「声」という実体へ変換してみせた。
続いて、初見視唱。見たこともない旋律を、完全な初見で歌うことが求められる。
優は譜面を凝視した。世界の時間が少しだけ遅くなる感覚を覚える。 音符がただの黒い点ではなく、すでに鳴っている音の粒子として、空中に立ち上がるのが見えた。
(……よし、歌える)
優は迷いなく声を出す。その歌声は、手渡されたばかりの楽譜の世界を忠実に再現していた。
長く続いた試験の終わりを告げたのは、事務的な一言だった。
「以上です。退出してください」
優は一礼して部屋を出た。
廊下に戻ると、喉の奥が痛いほど乾いていることに気づく。ゆっくりと息を吐いた。
***
そして、合格発表の日。優は梨花と共に、上野の森を訪れていた。
煉瓦造りの掲示板の前には、多くの受験生が集まっている。歓喜の叫びと、押し殺した啜り泣き。その相反する感情が渦巻く中、優は一歩ずつ掲示板へ近づき、自分の番号を探した。
「……あった」
三〇一三番。 声楽科の合格者一覧の中に、その数字が確かに刻まれていた。
「あったよ! ユウ君!!」
隣で見ていた梨花が、自分のことのように飛び上がり、優の手を強く握った。
「やった、やったね! 第一志望、合格だよ!」
「……うん」
優の目から熱いものが溢れ、足元の赤煉瓦を滲ませた。
ここは父と母が音楽を学び、出会った場所だ。両親の母校。
ふと見上げると、まだ硬い桜の蕾が、早春の陽光を浴びて僅かに膨らんでいた。
東京藝術大学、声楽科。
朝比奈 優の新たな物語は、この学び舎から始まるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます