【短編】秘密は秘密、ってね!【約2000字】

音雪香林

第1話 秘密は秘密だから秘密なの。

 まだ実感がわかないけれど、大学をもうすぐ卒業するというタイミングで私はとある知名度の高い新人賞を受賞し、作家デビューすることとなった。


 それにあたって雑誌でインタビューというか対談というか、そんなものを受けることになり、事前に質問事項が印刷された用紙が出版社から届いた。


 今、それに目を通している最中だったのだが……。


「ペンネームの由来を教えてください、か」


 ベタといったらベタな質問だ。


 私もあこがれの作家さんをリサーチしていた頃「いろんな由来があるな」とバリエーションの豊富さにおののいたものだ。


 ダジャレを含んだユーモアセンスあふれるペンネームの作家さんや、そのとき目についたものから適当に命名して後悔している作家さん、作品の神秘的な雰囲気を壊さないよう自分では面はゆいが美しい字面のペンネームにしたという作家さんもいらっしゃった。


 そして私の場合は……大切な思い出からだ。

 あれは私がまだ保育園に通っていたころ。


 三歳だったか、もう少し成長していて五歳だったか、記憶がおぼろげでわからないが雨の日であったことだけは鮮明に覚えている。


 晩秋の朝、母と保育園に行く道すがら雨降りだったので合羽を着て傘を差していた。


 だが、幼い私はそれらの機能をドブに捨てるがごとく走り回っては水たまりにダイブし、きゃっきゃと喜んでいた。


 二十歳をいくらか過ぎた現在の私は、泥だらけになった幼児を洗って着替えさせる保育士さんの手間や、謝罪しただろう母に申し訳なくなる。


 だが、不思議と母はあたたかく見守るだけで注意も何もしなかった。


 体が冷えるから早く保育園に行こうとか、泥だらけになるから水たまりに飛び込むなとも、なにも。


 足元の水がバシャバシャ音を立てるのは耳に心地よく、波紋を見るのも面白かった。


 上から降り注ぐ雨は晩秋だけあって冷たいが、霧雨きりさめっぽくさらさらしていて全身をやさしく包んでくれているようだと積極的に浴びていた。


 と、そんなふうに雨や水たまりと戯れていたわけだが、ちょっとずつ道を進んではいた。


「ほら、もうすぐで保育園よ」


 それまで好きにさせてくれていた母が傘を持っていないほうの手を握ってくれたのだが、びっくりした。


「おかあさんの手あつい! おねつあるの?」


 途端に心配になった私に母がふふふっとほほ笑んだ。


「おかあさんが熱いんじゃなくて、あなたの手が冷たいのよ」


 幼児だった私はいまいち意味を理解していなかったが「おねつじゃない?」と尋ねて「ええ」とやわらかな声が返ってきたことで安心した。


 瞬間、周囲が光に照らされた。


「あら、いつのまにか雨がやんでいたみたいね」


 上を向いて傘を閉じた母にならって目線を上げると、雲の合間から太陽の光が零れ落ちていた。


 重たい灰色をしていた雲も、徐々に白くなっていく。


 いきなり別世界の光景に切り替わったようで、私は開いたままの傘を放り投げた。


「たいようキラキラきれいね! 葉っぱもいつもより色が濃くておしゃれさん!」


 このとき、私の世界は確かに一等星より輝いていた。


 母は私の頭をそっと撫でて「さっきの雨はね、時雨しぐれっていうの」と教えてくれる。


「しぐれ?」

「そう。『過ぐる』からくる言葉で『通り雨』の意味よ」


 私はというと「すぐる? とおり雨?」といきなり難しいお勉強の時間になったようで悲しくなってきていたのだが。


「ところで、濡れた葉っぱさんたちはとてもきれいね」


 しぼんだ気持ちが高速てのひら返しでたちまちパンパンに膨れ上がった。

 葉っぱさんたちを見る。


「つやつや! 枝もまっくろくろ……ううん。茶色? 違う。くろいけどくろすぎないって何色?」


 きっと素敵な名前がついているに違いないのに、全然わからないと当時の私が幼児のくせに一丁前に悩んでいると。


「あのね、葉っぱさんも枝さんも、雨に濡れた世界全部を表す言葉があるのよ」


 母がないしょ話のように耳にささやいてきた。


「ほんとうに!?」


 わくわくと期待の瞳を母に向けると「それはね……」と教えてくれた。

 それこそが。


「時雨の色」


 成人した現在の私が反芻する。


 あの頃の母は、私がはしゃいでいると嬉しそうだった。

 あとでどんなに後始末が面倒でも止めなかった。


 けれど「一緒にきれいきれいしようね」と後始末を私と母の二人で行うので、幼い私もさすがに「これをまたしたら後始末が待っている」と学習して自重するようになる。


 躾の一環だったのだろうと悟ったのは成長してからで、母との時間はいつも素敵で楽しかった。


 嫌な思い出なんて、あったかもしれないが忘れてしまった。

 あの頃の幸福が、今も私を支えている。


 母のことが大好きだった。


「素敵な人ほど神様に呼ばれるっていうものね」


 もう故人が星になるなんて信じていないけれど、それでも。


「素敵な物語が書ければ、天国にも届くかな」


 幼いころに「こんなことをしたよ」「あんなことがあったよ」と母に伝えていたように、成人してからも「こんな素敵な物語を思いついたよ」と天国に知らせたくて書いているのだ。


 改めて出版社からの用紙に視線を落とす。

 そこには「時雨ノ色さま」とある。

 私はフッと苦笑してしまう。


「そのままじゃんねぇ」


 ペンネームの由来は思い出だけれども、親しくもない不特定多数に語るには少しためらう。


 ここは一発、嘘も方便ってことで。


「適当につけました!」


 秘密ってのは誰にも話さないから秘密なんだわ。

 秘密は秘密、ってね!


 おわり

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