不在への乗車

ささやきねこ

まもなくきます

深夜。国道沿いのバス停に、霧が溜まっている。

街灯の光は白く滲み、光源の輪郭を失ったまま、湿った空気の中に拡散している。アスファルトは濡れ、細かな水滴が表面を覆い、車の通過はない。音のない時間が、一定の厚みで停滞している。


バス停のポールは霧に包まれ、上部の時刻表は結露で濁っている。透明なはずの板は白く曇り、数字の並びは判別できない。下部のベンチには薄く水膜が張り、金属の脚が地面に黒い影を落としている。


電光掲示板が点灯している。

赤い文字が、右から左へと一定の速度で流れている。


 ――まもなくきます


文字は途切れず、同じ文言だけを繰り返している。

その移動だけが、この場所で確認できる唯一の動きである。


霧の粒子が光を反射し、掲示板の赤は滲んだ帯となって宙に溶けている。湿った空気が緩やかに流れ、皮膚の表面に細い水分が付着する。衣服の繊維が水を含み、わずかに重量を持つ。


スピーカーから、機械音声が流れる。

ノイズを被った音声で、抑揚は滑らかではない。複数の音源を接ぎ合わせたような間隔の不均一さがある。


「おまたせいたしました。バスが、まいります」


語尾が微かに歪み、最後の母音が長く引き延ばされる。

直後、遠方から低い重低音が響く。大型車両のディーゼルエンジンに似た連続音。国道の闇の奥から、霧を震わせながら近づいてくる。


地面が、わずかに振動する。

水を含んだアスファルトが、低い周波数で揺れる。音は一定のリズムを保ったまま、距離を縮めていく。


排気に混じった焦げた油の匂いが、遅れて霧の中を流れてくる。湿った空気と混ざり、温度の異なる層を作る。


霧の向こうに、強い光が現れる。

ヘッドライトに似た白い光が二つ、徐々に間隔を広げながらこちらへ近づいてくる。しかし、その間にあるはずの車体の輪郭は、どこにも形成されない。


光だけが進み、音だけが接近し、風圧だけが強まる。


「まもなくきます」


掲示板の赤い文字は変わらない。


エアブレーキの排気音が鳴る。

「プシュー」という短い噴出音が、霧を押しのけるように走る。光と音と風圧が、バス停の前で停止する。


しかし、目の前にあるのは、空気だけである。


何も存在していない空間の一点で、

「プシュウウウ……」

と、ドアの開閉音だけが鳴る。


目の前の霧が、四角く切り取られたように揺らぐ。その奥から、車内に特有の匂いが流れ出す。古い座席の埃の匂い。湿った布の匂い。温度を帯びた排気の匂い。


空気の密度が変化する。

見えない「ステップ」がそこにあるかのように、霧の層が段差を描く。


足が一歩、前へ出る。

地面を踏みしめていた感触が消え、空間に重量が抜ける。重心が前方へ移動し、空気の中に引き込まれる。


「ありがとうございました」


機械音声が、閉じる動作に同期する。


「プシュー」


再び排気音が鳴る。

光が一段階だけ強くなり、次の瞬間、霧ごと後方へ引き延ばされる。重低音が遠ざかり、振動が地面から抜けていく。


掲示板の赤い文字が、途中で消える。

「まもなくきま――」


表示は途切れ、黒い画面だけが残る。


霧が、ゆっくりと薄れていく。

街灯の光は輪郭を取り戻し、濡れたアスファルトの反射が静かに戻る。音のない国道が、再び奥まで見通せる距離を取り戻す。


バス停には、誰もいない。


ポールは霧を失い、時刻表の結露が滴となって下へ落ちる。

ベンチの水膜が重力に従って流れ、小さな水音が一度だけ鳴る。


電光掲示板は消灯したまま、赤い文字は表示されない。


遠ざかっていくエンジン音だけが、闇の奥で細く残り、やがて完全に消える。


ベンチの上に、小さな物が一つだけ置かれている。

濡れたスマートフォン。画面は暗いまま反射だけを受け、表面に水滴が溜まっている。


国道に、車は通らない。

霧はもう戻らず、音も戻らない。


バス停は、無人のまま、深夜の中に立っている。

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