第4話:Open, Sesame(下)
光の欠片たちが集まっては散りを繰り返しながら、少しずつ人間の形を作り始めた。いや、形だけではなかった。球体の欠片たちが互いに混ざり合いながら、色を表現し始めた。
濃紺のメイド服を
真っ白なエプロンを
そして——
オレンジ色のセミロングヘアがふわりと浮かび上がり、静かに降りた。乱れなく整った髪の下には、穏やかに目を閉じた少女の澄んだ顔があった。
コツン。
エナメルの靴が木の床の上で澄んだ音を立てた。宙で姿を整えた少女は、羽のように軽やかに進の前に降り立った。両手をエプロンの前で正確な位置に揃えたまま。
彼女の瞼が開いた瞬間、進は胸の奥がじんと痺れるような気持ちになった。
その無心な眼差しに、むしろ進は安堵と心地よさを感じた。現実でいつも出会う人々とは違い、先に彼を窺うこともなく、何の期待も感情も投げかけず、悪意も善意も期待も好奇心もない、ただ『そこにいる』だけの眼差し。
「初期設定が完了いたしました。初めまして、ユーザー様」
少女は軽く頭を下げながら口を開いた。
「いかがでしょうか。この姿でお手伝いしてもよろしいですか。ご希望でしたら『リセット』も可能です」
穏やかな微笑みさえ浮かべながら「リセット」を口にする少女の姿を、進は呆然と見つめていた。
一対の灰青色の瞳が、進に透明な視線を向けていた。
「リセットって……」
見た目なんてどうでもいい……仕事さえちゃんと手伝ってくれれば……進は自分にそう言い聞かせた。
「いや、いい。今の姿でいい。ちゃんと手伝ってくれるなら」
「ありがとうございます」
腰を折って感謝を示す少女に、進が一言付け加えた。
「それと……ユーザーっていうの……ちょっと違和感あるんだけど」
「では、ご主人様……」
「進でいい!」
何だか聞き続けたら恥ずかしくて死にそうな呼び方は遠慮したい。進は顔が真っ赤になった。
「かしこまりました、進様」
そんな進の内心を知ってか知らずか、少女は彼の言葉を整理するように一瞬目を閉じてから開いた。データストリームが整列するわずかな間、進は息を呑んだ。「進様」——少女の澄んだ落ち着いた声で呼ばれた自分の名前。あのAI音声よりも優しく呼ばれたのはいつ以来か、思い出せなかった。
「では、お手伝いする業務についてお聞かせください」
「うーん、会社の仕事を……ここで続けてやりたいんだけど……」
「業務の内容は何ですか?」
「えーと……データ処理だよ。財務諸表の分析とか異常値の検出、リスクタグ付け……まあそういうの」
「かしこまりました。現在の進様の環境を分析し、最適な設定をご提案できます。GomaWORLD内の空間を調整いたしましょうか?」
「……この山荘のような屋敷ならくらいなら、けっこういいんだけど」
進は周りをゆっくり見回しながら言った。
「うるさくもないし、照明もちょうどいいし……」
「それでは、この環境をデフォルトに設定いたします」
少女は視線を宙に向けた。まるで見えない何かを見つめるように。
「業務はログインアカウントに連携されたクラウドストレージに保存されている内容ですか?」
「ああ、そうだよ。けっこうな量なんだけど……」
進の言葉が終わる前に、少女が軽く手を振った。
すると窓際に、分厚く頑丈な木の机がまるで魔法のように現れた。まるで最初からそこにあったかのように。続いて少女の手が宙に弧を描くたびに、机の上に真鍮のスタンドが現れ、時計とメモボード、仮想モニターが次々と定位置についた。
まるでオーケストラを率いる指揮者のように山小屋の中を最適化していくその流麗な動きを、進は見惚れて見つめていた。
最後に少女が手を静かに下ろすと、テーブルの上に大量の書類が整然と積み上がっていった。
「おお……」
書類の一枚を何気なく手に取った進の口から感嘆が漏れた。その書類は、進がクラウドストレージに保存していたデータが具現化されたものだった。
あっという間にテーブルの上には膨大な量のデータが分類・整理され、それぞれの項目にタグが付けられた。
現実では絶対に一人ではできない整理が、一瞬で行われた。
「これ……けっこうすごいな」
「ありがとうございます」
少女は機械的にそう言った後、短く付け加えながら人差し指を立ててみせた。
「ご希望でしたら紙の書類ではなく、デジタルデータとしてスクリーンに表示することも可能です」
人差し指の先には、タブレットサイズのホログラムスクリーンが浮かんでいた。
「進様の業務に最も最適化された形でご利用ください」
進は椅子に座った。
現実から持ってきた資料データを呼び出し、GomaWORLDの机の上に広げた。
数字とグラフ、リスク評価表。
頭がぼんやりするほど複雑なデータたち。
少女は静かに彼の隣に来て、書類を検討し始めた。
表情に変化はなかったが、瞳の奥では目に見えない演算が猛烈に回っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
進は自分がいつの間にか家にいることを、VRの中にいることを、すっかり忘れていたことに気づいた。ずっと会社でやっていた仕事を場所を変えてやっているだけなのに、もっと爽やかな気分だった。
キーボードを叩く手が止まり、彼は横をちらりと見た。
少女はまだ同じ姿勢で立っていた。腰と背筋はまっすぐ伸び、手はエプロンの前できちんと揃えられている。澄んだ瞳だけが正面に浮かぶ資料を絶え間なく追っていた。
「俺たち、どれくらい作業した?」
「現在、進様の使用時間は2時間30分が経過しております」
「……疲れてない?」
進が冗談半分で聞くと、即答が返ってきた。
「AIは疲労を感じません。ただし、長時間の演算状態が続くとエラーが蓄積する可能性があるため、定期的なメンテナンスを推奨いたします」
「だろうな」
彼はニッと笑った。
「じゃあこれからよろしく、えっと……そういえば何て呼べばいいんだろう」
「進様のお好きなようにお呼びください」
「じゃあ……」
急に名前をつけようとすると、適当なものが浮かばない。
漫画や映画で見たキャラクターの名前……有名なハリウッド俳優の名前……どれも少女には合わない気がする。何より大層な名前の重みに、進自身が先に潰されそうだ。
進は少女を見上げた。灰青色の瞳が急かすように彼を見下ろしていた。もちろん彼女は何も考えていなかったから、それは純粋に進自身の自意識過剰だったのだが。
慌てて目を伏せてキーボードを見た進の目に、ある文字が飛び込んできた。。
A。
エイ。英語を習う時に最初に覚える文字。上に伸びるようなその形が、なんだか「はい!」と手を挙げているように見えた。
「エイ」
「エイですか、かしこまりました。進様」
思わず口から出た言葉が、あっという間に少女の名前になってしまった。これでいいのか? 進は戸惑った顔で少女を見たが、今やエイという名を持つことになった少女は、いつの間にかまた業務に戻っていた。
わざわざ訂正する理由も、何と訂正すればいいかもわからなかったから、進はただその姿を見つめていた。気のせいかもしれないが、ホログラムスクリーンの上を舞うエイの手つきが、一層軽やかに見えた。
「まあ、いいか」
***
進はブナの机に肘をつき、指で木目の模様をゆっくりとなぞった。その模様は、エイと初めて会った日、彼女が作り出したそのままだった。
丸太の壁も、温かな照明も、暖炉の灯りも、すべてそのままだった。
しかしエイは——
「……あれからもう2年か」
進は小さく呟いた。
2年。
その間に変わったものは……本当に何もないのだろうか。
「コーヒーです、進様」
そして静かにコーヒーを置くメイド、エイの声も相変わらず空気のように澄んでいた。
成長しないAIだから、髪も灰青色の瞳もそのままだ。無頓着な進が設定すらいじらなかったから、あのシンプルなメイド服さえも変わることがない。
しかし——
進は知っている、いや感じていた。
どこか、何かが——ほんの少しだけ変わったということを。
——ピンポーン
エイの内部システムに通知が表示された。
「進様、圭介様がお見えです」
「は?……また?」
彼女の名はエイ ~アイはまだ知りません~ 恵一津王 @invincible_rain
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