第3話:Open, Sesame(上)
——2年前。
紫陽花の色が一段と鮮やかになっていたある日のことだった。突然の雨に見舞われた
「俺、今お前んちの近くにいるんだけど! ちょっと雨宿りさせてくれ」
雨でびしょ濡れになった髪をタオルで適当に拭きながら、圭介は自分のブリーフケースからパンフレットを一枚取り出した。
「進、これちょっと見てみろよ」
【GomaWORLD体験セット——あなたの、あなたのための、あなたによる唯一の楽園】
「『自分だけの
「VRじゃん。興味ない」
かつてはマニアだけのものだったバーチャルリアリティ技術、VRは端末の小型化とコスト削減に成功し、昔のテレビやパソコンがそうだったように、人々の日常に急速に広がっていた。
進はコーヒーの入ったマグカップを圭介の前に置きながら首を振った。湯気の立つ熱々のマグからは、湯気とともにインスタントコーヒー特有の乾いた硬い香りが立ち上っていた。
「マッサージチェアを一台買うと思えばいいだろ。ちょうどテスターイベント期間中で値段もいいし」
圭介が進の部屋を見回しながら言った。
家具の数が五つにも満たない1LDK。ミニマリストが見たら歓声を上げるだろう。
「どうせお前、家でも仕事ばっかりしてるじゃん。いざとなったらVRワールドでだけでも休め。少なくともあそこなら静かに休めるから」
「家も静かだけど」
「本当に?」
圭介が目を細めた。
「このマンション、壁薄いだろ。隣のテレビの音聞こえるって言ってたじゃん」
「……」
「この前はお隣が女連れ込んだ音まで聞こえたって言ってたろ」
「……」
「残業で死ぬ前に、せめて休める空間くらいは必要だろ」
圭介は真剣だった。
進はマグカップを口元に運びながらパンフレットを受け取った。
「……考えとく」
***
テスター特価(社員割引込み)
12ヶ月無利子分割払い
送料無料。
VRリクライニングチェアは二日で届き、設置まで終えた配送員は「いい買い物しましたね」と笑って帰っていった。
それほど広いとは言えない部屋の一角に、グレーのリクライニングチェアがものすごい存在感を放ちながら鎮座していた。
「俺……本当にいい買い物したのかな」
滑らかな曲線。
ほのかな光沢。
人一人がすっぽり包まれるほどの大きさ。
「……これが楽園への入り口か」
進は小さく呟いた。
進は説明書を広げ、電源ケーブルを接続し、Wi-Fiを設定した。
電源を入れると、リクライナーの内部照明がやわらかく点灯した。青い光だった。冷たいようでいながら、どこか穏やかな光。
「とりあえず……入ってみるか」
進はリクライナーの中に体を滑り込ませた。
背もたれがゆっくりと傾いた。クッションが背中と腰を包み込んだ。思ったより心地よかった。
ヘッドレストに付いたバイザーを下ろすと、視界が暗くなった。
VR世界に吸い込まれていくような浮遊感は、感覚神経がマシンと正常に繋がった証だろう。
しばらくして、闇の中から文字が浮かび上がった。
【オープン・セサミ!——GomaWORLDへようこそ】
進は目を開けた。
いや、目はとっくに開いていたが、彼の視界に眩しい光が広がり——世界が変わっていた。
最初に感じたのは匂いだった。
木の香り。
それもどこかで燃えている薪の濃いオークの香り。
「……おお」
周りを見回した進は、思わず感嘆した。
周囲は居心地の良いカントリーハウスの内部のように整えられていた。壁には本棚が並び、その間にある小さな暖炉では炎が揺らめいていた。
窓の外には青々とした野原が広がり、その向こう遠くに雪山が見えた。
現実のワンルームでは絶対に感じられない広さと高さ、そして開放感。
「これが……GomaWORLD」
進が呟きながらこの空間を堪能していると、空間の真ん中に光が集まり、一つの球体を形作った。そして声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ、GomaWORLDへようこそ。ここは、あなたのための世界です。何をお望みですか?」
機械的で、落ち着いていて、中性的な声。何て言えばいいんだ? 進は途方に暮れた。
「あー……すまない……俺、GomaWORLDは初めてで……何て言えば……いいのかな」
「何でもおっしゃってください」
機械的だが丁寧で澄んだ声が聞こえるたびに、光が穏やかに脈動した。
「話し相手が必要ですか? 知りたいことがありますか? 感情を交わしたいですか?」
「話し相手……感情を交わす……」
進は思わず小さく笑った。微妙に自嘲的な笑みだ。
「何て言えばいいかな……俺、仕事が多すぎて……友達の勧めでこれを始めたんだけどさ……」
「業務のサポートが必要ですか?」
聞かれてもいないことをダラダラと並べ立てていた進は、思いがけない反応に驚いて聞いた。
「残業のサポートもできるのか? GomaWORLDはレジャー型プラットフォームだろ?」
「AI自体の機能で可能な限り、業務のサポートが可能です」
進は顔を輝かせた。
「そうか、仕事を手伝ってくれる相棒がいればいいな」
「では……」
光の球体が承知したとばかりに、自信を持って答えた。
「てきぱきと、しっかりお手伝いいたします」
「……」
進は石原係長を思い浮かべた。
きびきびした口調、効率的な指示、そして続く終わりのない業務……確かに石原係長は有能で良い上司だが、なぜか退勤後まで相手にすると思うと息苦しくなった。「そんなことしてたら俺死ぬ。マジで死ぬ」
進は手を振った。
「もうちょっと……俺が必要な時にそばでサポートしてくれる程度でいいかな」
「かしこまりました」
球体が一層明るく輝き始めた。
「ではユーザー様のニーズに合わせて再構成いたします」
瞬間、光の球体が散り散りに飛び散り、小さな欠片に分かれて散らばった。そしてその欠片たちは再び集まっては散ることを繰り返しながら、何かの形を作り始めた。
進は息を呑んでその光景を見つめていた。
光の中で、何かが作られていた。
——いや
誰かが、生まれようとしていた。
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