第4話 ひよりと おんがくのばんそうこう
ひよりは、朝の光をあびて、病院のまどぎわにすわっていました。
外はしずかで、遠くからふえのような音が聞こえてきます。ときどき、鳥のなき声もまざっていました。
でも、ひよりの心は、なにもうごきませんでした。
前は音楽を聞くと、わらったり、なみだが出たりしたのに。いまは、ただの音にしか聞こえません。
「おとって、こんなに つめたかったっけ……」
ひよりは、小さな声でつぶやきました。
体も、心も、すこしずつ しずかになっていくようで、まい日が すこしずつ とおくなっていく気がしました。
そのとき、しらない足音が、へやのそとから近づいてきました。
ドアがそっと開いて、知らない男の子が立っていました。
白いふくを着て、すこしふしぎな目をしています。
「これ、きみに。」
男の子は、小さな箱をひよりに見せました。
「……だれ?」
「ぼくの名前は、あおと。」
ひよりは、目をそらしました。
あおとは、何も言わずに、箱からうすい紙のようなものを出しました。
「これはね、『音楽のばんそうこう』。心がいたいときに、そっとはるといいよ。」
ひよりは、ちょっとわらいそうになりました。
「そんなの、あるわけないじゃん。」
でも、あおとは ふでふくように、小さなふえを出してふきはじめました。
音は、やっぱり心にひびきませんでした。
それでも―― ひよりの中で、何かがすこしだけうごいた気がしました。
ひよりは、そっとその紙を手にとって見つめました。
■
ひよりは、あおとからもらった小さなはこを てのひらにのせて、ながめていました。
中には、うすいかみが 何まいか 入っていました。色もかたちも ふつうの かみです。でも、あおとは たしかにこう言いました。
「こころが いたいときに、そっと はるんだよ。」
ひよりは そっとつぶやきました。
「こころって……どこにあるの?」
むねに 手をあててみたり、おなかにかざしてみたり。けれど、何もかわった気がしません。
「わたしの こころは、どこへいっちゃったのかな……」
とつぜん、ドアのほうから かるい足おとがして、あおとが またへやにあらわれました。
「きょうも、すこしだけ音をふくね。」
あおとは また ふえを 口にあて、やさしく 音をふきはじめました。音は、まるで ふんわりした 風のように へやにひろがります。
ひよりは まどぎわで その音をきいていました。
でも……やっぱり、心は 何も動きません。
「ごめんね……なにも、かんじない。」
ひよりが言うと、あおとは にっこりわらって いいました。
「それでいいんだよ。なおらなくても いいの。」
「え?」
「ぼくの音はね、ひよりの心が ひよりのままでいられるように ふいてるんだ。」
ひよりは、びっくりしました。なおすためじゃなくて、ままのため?
しずかな音が まだへやにのこる中で、ひよりは うすいばんそうこうを 一まい そっとてにとりました。
そして、それを むねのうえに そっと あててみました。
何も かわらないような気がしました。でも、すこしだけ、こころの中が まるくなったような、そんな気がしました。
「わたし……まだ、感じるって、できるのかな……」
ひよりは、そっと目をとじました。
■
ひよりは 目をさましました。朝の光が カーテンごしに へやをあかるくしています。
でも、きょうは しずかすぎました。ふえの音も、足おとも しません。
ひよりは まどぎわで 小さなはこをながめました。あの「おんがくのばんそうこう」が 入っているはこです。
「きょうは……あおと、こないのかな」
つぶやいてみたけれど、へんじはなく、へやには 風の音だけが すこしふいていました。
「きのうのこと、ぜんぶ 夢だったのかも」
ひよりは、はこのふたをあけて、うすい紙を一まい とりだしました。
手にのせても、ただの紙にしか見えません。とくに何も おこらない。
「ほんとうに ばんそうこうなの……?」
そのとき、なんだか さみしさが どっとおしよせてきて、ひよりは そっと 目をとじました。
音もなく、ふしぎな白い時間が ながれていきました。
……でも、しばらくして ひよりの ゆびが ポン……ポン……と 音をたてはじめました。
手のひらで ひざを たたいているのです。
「なんだっけ……このリズム……」
ふと、ひよりの 耳の中に、あの ふえの音が よみがえってきました。
ちゃんと聞こえるわけじゃないけれど、「あのときの おとが まだのこってる」って 思いました。
目をあけると、へやは まだしずか。でも、ひよりの心の中には 小さな音が 生きていました。
「きえちゃったんじゃない……わたしの中に、のこってるんだ」
ひよりは、そっと口をひらきました。
さいしょは 小さなこえ。でも、それはたしかに「うた」でした。
ことばはなかったけれど、リズムにのって、メロディーが うまれていきます。
それは だれにも まねできない ひよりだけの うた。
まどの外で 風がふいて、鳥がとおくでないています。
ひよりのこえが、それに そっと まざりました。
「うたって、まだ……わたしにも、できるんだ」
ひよりは 小さくわらいました。
■
ひよりが歌った夜のこと。
あおとは一人で空を見上げていました。
手に笛を持っていますが、少しだけふるえていました。
「あの声、聞こえたよ……ひよりの声」
あおとはそっと言いました。
その声は、ただの音ではなく、心の音でした。
「ひよりの歌に、こたえたい」
あおとは笛を口にあてました。
優しい音が風に乗って、夜空に溶けていきます。
その音は、もう「ばんそうこう」の音ではなく、
「ありがとう」と「ここにいたね」の音でした。
あおとは静かに吹き続けながら、
ひよりの言葉が聞こえてくるように感じました。
「まだここにいるね」
あおとはゆっくりと笛の音をのばしました。
部屋は静かで、あおとのやさしい音が
ひよりのことを伝えているようでした。
その音は柔らかな風となり、
窓からそっと外へと抜けていきました。
ひよりの歌とあおとの笛の音が
二人の心をつないでいました。
■
あおとは ひよりの いない へやにいました。
ベッドの上には なにもなく、
まどの外には やさしい光が さしていました。
小さな 木のはこだけが、のこっていました。
あの「おんがくのばんそうこう」が 入っているはこです。
あおとは そっと手にとって、ふたをあけました。
中には うすい紙が 一まいだけ、のこっていました。
「ひより……これは きみのこえだよね。」
あおとは 目をつぶって 思い出しました。
ひよりが うたった あの夜のこと。
かすかな声。ふるえるような歌。
でも、その歌には たしかに 生きている音がありました。
「まだきえてない。ちゃんと ここにある。」
あおとは 胸に手をあてました。
ひよりの音が、自分の中で とても小さく
でも はっきりと ひびいていました。
そのとき、あおとは わかりました。
――この音は、つぎのだれかに わたしていくものだ。
あおとは はこを手に 病院のべつのへやへ向かいました。
そこには ちいさな子どもが 一人 ねていました。
あおとは やさしく こえをかけました。
「これ、あげる。ふしぎなばんそうこうなんだ。」
子どもは 目をまるくしました。
「音は きこえないかもしれない。
でも、こころで さわってごらん。
いたいときに そっとはると、
やさしい音が なかから きこえてくるよ。」
子どもは ゆっくり うなずいて、
はこを 大切に 胸にだきました。
そのとき、あおとの耳に ふしぎな気配が ながれました。
声ではありません。でも、たしかに なにかが ひびいたのです。
「ありがとう」
そんな音が、たしかに 聞こえた気がしました。
あおとは そっと まどをあけました。
外の光の中で、かすかに 風がうたっていました。
それは、ひよりの歌のつづきのようでした。
■
まいあさ ひよりの へやには ひかりがさしこみます。
でも この日は いつもとちがって、
とても しずかな あさでした。
ひよりは もう ことばを 話せません。
体も ほとんどうごかず、目だけが ゆっくりと まどの外を見ていました。
あおとの ふえの音が、
まだ こころの中に のこっていました。
その音は、ひよりの胸の中で やさしく ひびいていました。
でも、だんだんと その音も とおくなっていきます。
――わたしは まだ ここにいるよ。
ひよりの こころが そう さけんでいました。
けれど、こえが でません。
のどは かわき、くちびるは かすかに うごくだけ。
それでも ひよりは、あおとに つたえたかったのです。
「まだ……ここに……いるの。」
そのことばは、音にはなりませんでした。
でも ひよりの からだは、ふるえるように 小さく うたっていました。
それは こえのない うた。
けれど、たしかに ひよりの いのちが こめられた うたでした。
そばにあった ばんそうこうの はこを にぎりしめると、
ひよりの 目から なみだが すっと こぼれました。
そのときでした。
まどのカーテンが ふわりと ゆれました。
風が へやの中に そっと はいってきたのです。
かぜは ひよりの ほほを なでて、
そして 天井の方へ ぬけていきました。
まるで 小さな音が、空へとのぼっていくようでした。
――これが、わたしの さいごの うただったんだ。
ひよりは そっと 目をとじました。
こえは どこにも のこっていません。
でも、こころの中に たしかに 音が ひびいていました。
それは、だれにも きこえない うた。
でも、たしかに 生きていた うた。
そして その音は、
きっと だれかの 胸の中に、
これからも のこっていくのです。
それから、たくさんの日が すぎました。
病院の庭には 季節ごとに ちがう花がさき、
ちいさな鳥たちが 朝ごとにやってきて、
すこしさびしくて、でも やさしい時間が ながれていました。
あおとは 今も ときどき ふえをふきます。
ひよりが さいごにうたった夜を わすれないように。
それはもう、「だれかをなおす音」ではなく、
「ここにいたよ」という しるしのような音になっていました。
ある日、あおとは 病院の おんがくしつにいました。
そこには あたらしい子どもたちが 何人か すわっていました。
あおとは 小さな箱を てのひらにのせながら、こう言いました。
「これはね、『おんがくのばんそうこう』。
見えないけれど、心に はれるんだ。」
子どもたちは ふしぎそうに見つめました。
ひよりと おなじように。
でも、その中の一人が 小さな声で 聞きました。
「それって……どんな音がするの?」
あおとは すこし 考えてから、にこっと笑って言いました。
「その人だけに 聞こえる音さ。
だから……それが、きみのうたになるんだよ。」
子どもは はこの中の うすい紙を そっと手にとり、
自分の胸に だいじに あててみました。
しんとした おんがくしつ。
でも、どこからか 風の音がまじって、
だれにも聞こえない こえが たしかに そこに ありました。
それは――
ひよりのうたの つづきかもしれません
(おわり)
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