第5話 あおとと ぼろぼろのぬいぐるみ
あおとは、しんでいました。
でも、おばけでも、てんしでもありません。
かぜにもふれられず、かげもできず、だれの目にも見えません。
けれど、たしかにそこに、いるのです。
ある日、びょういんのうらにわで、あおとは何かを見つけました。
それは、ぼろぼろのぬいぐるみでした。
みみがかたっぽちぎれていて、わたがぴょこんとのぞいています。
よごれた青いくまのぬいぐるみです。
もう、だれにもだかれずに、じめんにぽつんとすわっていました。
あおとは、ぬいぐるみをそっとだきました。
さわったかどうかはわかりません。
でも、なぜかちゃんと、だいている気がしたのです。
「……きみも、こわれてるんだね」
声は出していません。
けれど、ぬいぐるみには伝わったような気がしました。
そのぬいぐるみは、まるであおとのようでした。
だれにも気づかれず、だれにもふれられないけれど、
むかしだれかにだかれたことがある。
そのおもいだけが、形の中に、のこっているのです。
あおとは、ぬいぐるみをむねにかかえて、びょういんの中へ入っていきました。
じどうドアはあきません。ボタンもおせません。
だから人のすきまをすりぬけて、かいだんをひとつひとつのぼっていきました。
ひよりのへやは、ひがしむきのすみっこにあります。
あさはひかりがまぶしくて、よるはしずかすぎて、さみしいへやです。
ドアはすこしだけ、あいていました。
あおとはそっと中をのぞきこみました。
ひよりはベッドにねていて、ほそい手がふとんの上に出ています。
小さなむねが ときどき ふくらんで、しずかにいきをしていました。
カーテンごしに日がさして、へやの中が やわらかい光でみたされていました。
あおとはなにも言わず、そっとへやに入りました。
ひよりは目をあけていましたが、あおとのすがたは見えません。
けれど、ひよりは小さくつぶやきました。
「……ぬいぐるみ?」
その声はとてもかすかでした。
あおとはおどろきました。
どうして、ぬいぐるみがわかったのでしょう。
ひよりの目は天じょうを見ていました。
でも、声の中には、どこかなつかしいものがふくまれていました。
あおとは、ぬいぐるみをそっと、ひよりのむねの近くに置きました。
そのとき、まどからかぜがふいたような気がしました。
ひよりは、目をとじて、ぬいぐるみをぎゅっとだきしめました。
「なつかしい……かんじ」
あおとはなにもこたえませんでした。
ひよりのそばにある、いすにしずかにすわって、
ふたりをつつむしずかな時間を見まもっていました。
声も、音もないけれど、
そこにはたしかに、なにかがながれていました。
■
ひよりは、ぬいぐるみをそっとむねにだいていました。
ちいさな手が、ゆっくりと、そのからだをなでます。
ぬいぐるみの つぶれた目、やぶれた耳、ほどけた糸。
でも、ひよりは ひとことも いやがりませんでした。
あおとは そのようすを ただ しずかに見ていました。
「ねぇ、ぬいぐるみさん……」
ひよりが 声を出しました。かすかで、とぎれとぎれの声です。
「こどものころ、ね……わたし、よるがこわかったの」
「なにも 見えなくて、くらくて……」
ぬいぐるみを だいたまま、ひよりはつづけます。
「でも、ある日、おかあさんがくれたの。ぬいぐるみ」
「おなかに においがついてて、ふわふわで……」
「わたし、ねむれるようになったの」
それは、たぶん このぬいぐるみじゃない。
けれど、ひよりの中では そのおもいでと、今 手の中にあるぬいぐるみが、つながっていた。
ぼろぼろになっても、あいされていた すがた。
すてられそうでも、だれかの だきごこちを おぼえている。
あおとは、ふと ぬいぐるみを見つけたときのことを思い出しました。
うらにわの すみっこで、だれにも見つけてもらえずに、雨にも日ににもさらされて、こわれていったぬいぐるみ。
まるで じぶんみたいだ、と思ったのです。
「ぼくも……ぼくも、きみみたいに、ぼろぼろなのかな」
あおとは、そっと 自分の胸に手をあてました。
心ぞうの音はしません。体温もありません。
生まれかわると、あおとは 世界をこわす人間になります。
おおぜいをしはいして、さいごには 人間たちをおわらせてしまう――そんな運命です。
でも、今――このときだけは、そんなこと、思いたくなかった。
ひよりが、ぬいぐるみを だいている。
あおとは、それを見ている。
それだけで、なぜか せかいが とてもやわらかく感じました。
「ねえ、ぬいぐるみさん」
ひよりが また 話しかけます。
「あなたの中に、だれか いるのかな」
「わたしの声、ちゃんと とどいてるのかな」
ぬいぐるみは、何もこたえません。
でも、ひよりは 目をとじて ほほえんでいました。
あおとは、そのすがたに、心の中でこたえました。
うん、いるよ。
ここに、ちゃんと、ぼくがいるよ。
ひよりには、たぶん 聞こえていません。
でも、ぬいぐるみを通して、たしかに 何かが とどいていたのです。
あおとは、ぼろぼろのぬいぐるみのやぶれたすきまに、
小さなひかりが うまれているのを見た気がしました。
■
その日の よる。
びょういんの そとには かぜがふいていました。
木のえだが ガサガサと こすれあい、まどガラスに ときどき雨があたります。
ひよりは、いつもより ねむりがふかいように見えました。
ぬいぐるみを しっかりとむねにだいて、ゆっくりと いきをしています。
でも、あおとは どこか ふあんでした。
「ひより……」
声は出ません。けれど、胸の中で 何ども名前をよびました。
ひよりのいきが、すこしずつ あさくなってきているのです。
とつぜん――
「ひよりちゃん!」
まどのそとから、せんせいの声がひびきました。
それと同じとき、ひよりのからだが 小さくふるえました。
いきをすう音が、ひっきりなしに かわいていきます。
せんせいや かんごしさんたちが、あわててかけこんできます。
「だいじょうぶ! ひよりちゃん、がんばって!」
ベッドのまわりには たくさんの手とこえ。
あおとは すみによけました。
そこには 自分のいるばしょなんて ありません。
だれも あおとを見ません。ふれてもきません。
このへやには、あおとだけが 「しんでいる」ものだから。
ぬいぐるみは、ひよりのうでの中から はなされてしまいました。
ひよりの手は、うごきません。
せんせいたちの声が、とおくなる。
かべの時計が、チクタクと ふしぎなくらい大きな音でなっています。
あおとは、ぬいぐるみを手にとりました。
やぶれた耳、ゆがんだ目――でも、
その中に、あたたかいひよりの「手ざわり」が まだのこっている気がしました。
あおとは、ぬいぐるみをだきしめました。
いまはもう、なにかを守ることも、止めることもできません。
それでも。
「ひより、ここにいるよ……」
声は 風のように、だれにも聞こえない。
でも あおとは、ひよりの耳もとに そう言ったつもりでした。
それから、へやの中は しずかになりました。
せんせいも、かんごしさんも、くちをとじて立っています。
だれもなにも言いません。
あおとは、いすにすわりなおして、ぬいぐるみをだきしめたまま、
ひよりのとなりに、ずっと よりそっていました。
まどのそとでは、あめがやんでいました。
■
まどのそとでは、あさのひかりが ゆっくりとのぼってきました。
ひよりのへやは、しずまりかえっています。
ベッドの上には、もう ひよりのすがたは ありません。
のこっていたのは、あのぼろぼろのぬいぐるみだけ。
あおとは、ベッドのよこにすわっていました。
ぬいぐるみを そっとだきよせます。
あたたかさは、もう のこっていません。
でも、そのぬいぐるみは、たしかに ひよりの さいごのぬくもりを 知っていました。
あおとは ぬいぐるみの耳を なおそうとはしませんでした。
やぶれたまま、くたびれたまま。
それで いいと 思ったのです。
「ぼくも、そうだから」
あおとは、もともと このよに 生きていた子でした。
でも、ある日 しずかに死んで、いまは だれにも見えない「しんだこ」になったのです。
それだけなら さみしいだけで、まだ よかったのかもしれません。
けれど、かこくな運命がまっていました。
あおとは、いつか また 生まれかわることになっています。
そのとき、やさしい子には なれない。
そう、神さまに告げられたのです。
すごく つよくて、こわくて、せかいを こわしてしまうような、大人に なるのだと、
どこかで 知ってしまったのです。
人間をぜんいんほろぼすような。
でも。
「ひよりは、ぼくを見てくれた」
「見えなくても、ぬいぐるみごしに、声をとどけてくれた」
それは たしかに、あおとにとって はじめての「やさしさ」でした。
ぬいぐるみを だいていた ひよりの手。
その手は、もう うごかないけれど。
その手の中で、あおとは「まもりたい」と思ったのです。
それが、まちがいでも、かなわなくても。
あおとは 立ち上がりました。
ベッドの上に そっとぬいぐるみをもどします。
「ありがとう」
小さくつぶやいて、あおとは 病室を出ました。
ながいろうかを、しずかに 歩いていきます。
人のすがたをすりぬけて、まどのそとの光に 向かっていきます。
きっと、これからも あおとは 見えないままです。
なににもふれられず、だれにも気づかれない日々が つづいていくでしょう。
でも、もう ちがうのです。
「ぼくは、しってる」
「ぼろぼろのままでも、だいていいってことを」
「だれかを、すきになっても いいってことを」
それは、ぬいぐるみが教えてくれたこと。
そして、ひよりが さいごにくれた、たいせつな思いでした。
■
その日から、あおとは ひよりのいない病室に、もう行かなくなりました。
しずまりかえったへや。ベッドの上には、ぬいぐるみがぽつんとのこっています。
だれにも だかれず、でも、ひよりのにおいだけが かすかにのこっていました。
あおとは 屋上にのぼって、まちを見おろすのが日課になりました。
風がふくと、あの夜のことが、ふいに思い出されます。
「ぼくは……ほんとうに、やさしくなれたのかな」
つよい風が、あおとの体を すりぬけていきます。
手をのばしても、さわれるものは なにもありません。
でも、こころの中には ずっと あの時の ひよりの顔がのこっています。
そのとき――
どこからか、「ふぅー、ふぅー」と音がしました。
くちぶえのような、ふえのような、かぜのような。
とても小さくて、やさしい音でした。
あおとは 立ちどまり、耳をすませます。
屋上のかど、古いベンチの下。そこに、小さな子どもがすわっていました。
白いふく。大きなぼうし。手には こわれかけのラジオをもっています。
でも、その子も あおとのことには まったく気づいていません。
あおとは、そっと近づきました。
すると、その子が ラジオを見つめながら、つぶやきました。
「これ、ね。こわれてるの。でもね、まだ、こえが のこってるの」
ラジオは、ジリジリと音をたてるだけ。声なんて、なにも聞こえません。
でも――あおとは、思いました。
(あ…… なんか、にてる)
ぬいぐるみ。
そして、ぼく。
こわれてるけど、まだ なにかが のこってる。
ぬくもり。声。気持ち。ことばにならなかったもの。
その子は、ラジオに耳をあてて、うなずきました。
「うん、やっぱり、きこえる」
まるで、あおとの こころの声に こたえたみたいに。
あおとは 気づきました。
ひよりが ぼくに とどけてくれたのは、
「まえに進んでもいいよ」という、
やさしい、さいごのくちぶえだったのかもしれない、と。
ぬいぐるみも、ラジオも、ぼくも――
ぼろぼろでも、のこったままで、
だれかの心に すこしだけふれていけるなら、
それは もう、十分なことなんだと。
あおとは、ふっと わらいました。
風が また、ふきました。
ぴゅう、ぴゅう。
その音が、どこかで くちぶえに 聞こえた気がしました。
あおとは、ほほえみました。
■
屋上に、朝のひかりがさしこんでいました。
風がふいて、しろいカーテンが やさしくゆれています。
あおとは、ラジオの子どもが いなくなったベンチの下に、
そっとすわっていました。
ラジオは、もう 音をたてません。
でも、あおとの耳には、まだ あのくちぶえが 残っていました。
ぬいぐるみは、いま びょういんの ちいさなかごの中に しまわれています。
「だれかの おきにいり」っていうラベルが ついていました。
こわれた目も、そのまま。
ぬいめのほどけも、そのまま。
それでいて、ふしぎなことに――とても たいせつそうに 見えました。
あおとは、それを見て、ちいさくうなずきました。
「ぼくも……そうありたいな」
もう、ひよりはいません。
でも、ひよりの“さよなら”は、ただの終わりじゃありませんでした。
それは、つぎの誰かに やさしさをつなぐ、しるしだったのです。
あおとは、立ち上がりました。
そのとき。
「ねえ、あなた、あそんでるの?」
ふいに、だれかの声がしました。
ふりかえると、ちいさな女の子が 立っています。
びょういんのパジャマに、ちょっと大きすぎるスリッパ。
あおとは、すこしだけ目をまるくしました。
(……見えてる?)
その子は、あおとの手のあたりを見ながら、ふしぎそうに首をかしげています。
「だれもいないのに、手が うごいたみたいだった」
あおとは なにも言えませんでした。
でも、その子は わらって言いました。
「まぼろしかな? でも、なんか こわくないよ」
それだけ言って、女の子は かけ足で病室に戻っていきました。
あおとは、しばらく動けずに そこに立っていました。
手を見ました。
だれにもふれられない、つめたい、しんだ手。
けれど、いま――
ほんのすこしだけ、その手が ぬくもったような気がしました。
たしかに、生きてはいない。
でも、
まだ できることがあるかもしれない。
ぬいぐるみが そうだったように。
ラジオが そうだったように。
「……ぼくも、つなげるんだ」
あおとは、まどの外を見つめました。
光が、たくさんの屋根にふりそそいでいます。
まだ見ぬ誰かのもとへ、
まだ泣いている誰かのそばへ。
ぼくは、手をのばせる。
さよならの てのひらを、そっと わたせる。
それは、ひよりが 教えてくれたこと。
それが、ぼくの、さいしょの一歩。
とりあえずは、ひよりに会いにいこう。
ひよりは今の僕と同じだから。
なんと言って声をかけたらよろこぶかな?
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