第3話 ひよりと ひみつのいのちのケーキ

おひさまのひかりが、カーテンのすきまからやさしくのぞいている。


 まどのそとは、しずかなそら。うすいミルクをそそいだような、やわらかいしろ。


 ひよりは、ベッドのうえから、そのそらを見あげていた。


 「きょうのそら、あまいミルクみたい」


 ひよりがつぶやくと、そばにいたおかあさんがふっとわらった。


 「ほんとうね。ひよりのミルク、のんでみたいくらい」


 おかあさんはカーテンをそっとひらいて、ひよりのほうにひかりを入れてくれる。


 そのひかりは、ぬるま湯みたいにあたたかくて、いたいおなかにも、すこしやさしかった。


 「まぶしくない?」


 「ううん。きょうのひかり、すき」


 ひよりは、すこしだけからだをおこして、くびをかしげる。


 きのうよりも、きょうは、すこしだけいいかんじ。  でも、ごはんはあんまりたべられなかった。牛乳は、ひとくちだけのんだ。


 おかあさんは、ひよりのかみをくしでとかしながら、やさしいこえでいった。


 「すこし、いいかおしてるね」


 ひよりは、くすっとわらった。


 へやのなかには、点滴のしずくがおちる音がしている。


 ことん、ことん。しずくのリズムは、まるで、どこかとおいところのうたみたいだった。


 今日のくすりはやっぱり苦かったけれど。


 「きょうって、どようび?」


 ひよりがきくと、おかあさんはくびをふった。


 「ううん、きょうはもくようびよ」


 「……そっか。どようびじゃないんだ」


 「どようびだと、なにかいいことあるの?」


 ひよりは、すこしだけまようようにしてから、つぶやいた。


 「ケーキ……たべたいなって、おもって」


 おかあさんは、すこしだけおどろいたような顔をして、それからやさしくうなずいた。


 「そっか。ケーキ、いいね」


 「でも、きょうは、ちがうから。べつにいいの」


 「ケーキか。ひよりはなんのケーキがいいの?」


 「うーん、いろいろあってまようけど、やっぱりショートケーキがいいな」


 ひよりは、そらを見た。まどのそとのそらは、さっきよりもまぶしくなっていた。


 くものかたちがすこしずつかわって、どこかへ流れていく。


 ふと、ひよりはなにかの気配をかんじた。


 ふりかえると、へやにはおかあさんしかいない。  でも、カーテンのすきまのひかりが、ちょっとだけ、ゆれたような気がした。


 ひよりは、そっと目をとじて、ひかりの中の音をきこうとした。


 ことん、ことん。


 点滴の音が、ゆっくりと、やさしく、胸のなかにひびいていた。







 よるのへやは、まるでおぼろげなゆめのなかのように、あかるくてしずかだった。

 まどのそとは、ほそいおつきさまが、ちいさくてまるいかげをのこしていた。


 おかあさんは、ひよりのとなりにすわって、ほんをよんでくれていた。

 こえはすこしだけ、しずかになり、ひよりはまどのてんじょうをぼんやりとみつめていた。


 ケーキのことが、ずっとこころのなかでくりかえされていた。


 (ショートケーキ……いちごが、やわらかいのがいいな)

 ひよりは、けはいにさわって、くちにはださなかったけれど、しぜんとねがいごとをしていた。


 (さいごのひとくちって、いちごにしたい)

 それをいったら、ほんとうにさいごになりそうで、こわくていえなかった。


 つぎのあさ、おかあさんはちょっとだけでかけることにした。


 「ちょっとだけ、おでかけしてくるね」


 「どこいくの?」

 ひよりがきくと、おかあさんはわらって、


 「ちょっとだけ、ひみつ」


 とこたえた。


 ひよりはすこしふあんなきもちになったけれど、どこかうれしかった。


 おかあさんがいないあいだ、へやのなかはしずかだった。

 ひよりはまどのそとをみたり、きのうのケーキのはなしをおもいだしたりした。


 (たんじょうびじゃないけど、たんじょうびって、いつでもできるんじゃないかな)


 そんなことを、そっとこころでつぶやいた。


 おかあさんは、やわらかいかおをして、しろいちいさなはこをかかえてかえってきた。


 「ひより、ちょっとはやいけど、これ……」


 ひよりはびっくりして、めをまるくした。


 「きょうは、ちょっとだけ、たんじょうびってことにしない?」


 おかあさんがそういった。


 「ひみつの、たんじょうび……」


 ひよりは、つぶやいた。


 でも、まだ、たべたくなかった。


 「ひよりのタイミングでいいよ」


 おかあさんはそういって、ケーキをこおりのなかにしまった。


 よる、ひよりはケーキのゆめをみた。


 いちごがふわりとそらにうかんで、どこかへいってしまうゆめ。


 そのとき、ひよりはなにかのけはいをかんじた。


 へやのすみで、ひかりがすこしだけゆれていた。


 おかあさんにはみえないけれど、ひよりだけがそれをかんじた。







 あさから、ひよりのむねはなんとなくドキドキしていた。

 ケーキのことをおもうと、うれしいような、こわいようなきもちになった。


 「ひより、すこしつかれた? すこしねようか」

 おかあさんがやさしく声をかける。


 「……うん。なんか、きょうはねむいの」


 ひよりは、ふとんをなおしてもらいながら、まぶたをとじた。

 まどのカーテンはすこしあいていて、そとのひかりがしずかにゆれている。


 ことん、ことん。

 点滴のしずくの音が、ひよりのむねの奥に、やさしくしみこんでくる。


 いつのまにか、まどのほうに、すこしふしぎな気配を感じた。


 まどのそと、ひかりの中に、小さな男の子がたっていた。


 ふつうのふくをきて、リュックもせおっていない。ランドセルでもない。

 でも、学校にいくような、そうじゃないようなかお。


 その子は、にこっとわらった。


 「ケーキ、おいしそうだね」


 ひよりは、びっくりして、声がでなかった。


 「……だれ?」


 「ぼく? あおと、っていうんだ」


 あおとは、ひかりのなかで、すこしうしろにさがった。

 でも、ひよりの心には、なつかしいようなぬくもりがのこっていた。


 「どうしてここにいるの?」


 「わすれものを とりにきたんだ」


 「ここにはなにもないよ」


 「あるよ。まだ、たべてないケーキがある」


 ひよりは、くちをとがらせて、ちょっとだけふくれた。


 「……たべるの、こわいの」


 あおとは、まっすぐな目で、ひよりを見た。


 「たべると、なにかが はじまる。おわりじゃなくてね」


 ひよりは、すこしだけくびをかしげて、うつむいた。


 「ほんとに?」


 あおとはうなずいた。


 そして、ふっと、ひかりといっしょにきえた。


 まどのそとは、いつもの空。しずかな、ミルクいろのそら。


 ひよりは、目をひらいた。


 それが、ゆめだったのか、そうでなかったのか、よくわからなかった。

 でも、まどべだけ、やわらかいひかりがのこっていた。


 なぜなのか、ちょっとだけケーキがたべたくなった。


 「おかあさん……ケーキ、すこしだけ……たべてみようかな」


 おかあさんは、やさしいかおでうなずいて、ケーキをとりだした。


 「いちごは、さいごにとっておくね」


 ひよりはそういって、そっと、スプーンをもった。







 おかあさんが、れいぞうこからケーキの箱をそっととりだした。

 白い箱のふたをあけると、甘いにおいがふわっとひろがった。


 ひよりは、ゆっくりとからだをおこす。

 そのにおいだけで、すこしだけ、おなかがすいた気がした。


 「わあ……」


 ケーキのうえには、いちごがひとつ。

 ぴかぴかしていて、まるで宝石みたいだった。


 「ひよりのショートケーキだよ」


 おかあさんが、やさしい声で言って、白いおさらにケーキをのせる。

 ひよりは、スプーンを手にとった。ちょっとだけ、ふるえていた。


 そっとすくって、くちにいれる。


 やわらかいスポンジ。ふわふわのクリーム。

 あまい、あまい味。


 そのとたん、ぽろっと、涙がひとつこぼれた。


 「ひより……?」


 おかあさんが、小さな声でたずねる。


 ひよりは、ふるふると首をふって、しずかにこたえた。


 「ちがうの……ちがうの……

 おいしいの……すごく……おいしいの……」


 涙が、あとからあとからあふれてくる。

 でも、ひよりはスプーンをはなさなかった。


 おかあさんも、目に手をあてた。

 ふたりとも、ことばがでなかった。


 「……ねえ、おかあさん」

 「なあに?」


 「このケーキ、わたし、ずっとおぼえていられるかな」


 おかあさんは、すこしだけ考えてから、やさしくうなずいた。


 「ひよりが忘れても、わたしがおぼえてる。

 クリームのやさしいあじも、いちごのあまさも。ずっと、ね」


 「じゃあ……わたしが、そらにいっても?」


 「うん。そらのうえにいても、きっとわかる。ああ、これがひよりのケーキのあじって」


 ひよりは、なにも言わずに、またひとくちたべた。

 ケーキの味が、やさしくむねのなかにしみこんでいった。


 しばらくして、ケーキは、あとすこしになった。

 いちごは、まだのこしてある。


 「ねえ、おかあさん」

 「なあに?」


 「ちょっとだけ、ねむくなってきた……」


 「じゃあ、すこしおやすみ。ケーキは、ここにあるから」


 ひよりはベッドにもどって、目をとじた。

 おなかのなかに、ほんのり甘さがのこっていた。


 そのときだった。


 かすかな声が、耳のなかにふっと入ってきた。


 「あじ、わかった?」


 ひよりは目をあけずに、こたえた。


 「うん……おいしかった……」


 声は、それだけで、すっと消えた。 でも、なんとなくわかった。あおとだった。

 さっきの子。名前を言ってくれた、あの子。


 ひよりは、まどのほうを向いて、小さな声でつぶやいた。


 「また……たべたいな」


 それは、ケーキのことか、なにかべつのことか、じぶんでもよくわからなかった。

 けれどそのとき、ひよりの胸のなかで、なにかがすこしだけ、灯った気がした。


 まどのそとには、しずかに光るそら。

 いちごの香りが、まだ、ほんのすこしだけ、くちのなかにのこっていた。







 そのよる、ひよりはなかなかねむれなかった。


 てんじょうを見ながら、しずかに息をしていた。

 ケーキのあまさが、まだくちのなかにのこっているような気がしていた。


 おかあさんは、つかれたようすでソファによりかかって、すこしねむっている。 病室の灯りは、おさえたまま。

 点滴の音が、ことん、ことん、とやさしくひびいていた。


 そのときだった。

 まぶたのすきまから、うすいひかりがすべってきた。


 ベッドのそばに、あの子がいた。

 あおと。まえに、まどのそとから、ひよりに話しかけてくれた子。


 「こんばんは」

 「……あおと、またきたの?」


 「うん。なんとなく、ひよりのところに、きたくなったから」


 あおとは、まるで当たり前のように、ベッドのはしにすわった。 おかあさんは気づかない。

 あおとは、やっぱり、こえのような、ひかりのような存在なのだと思った。


 「よるの光、すき?」と、あおとがきいた。


 「うーん……すこし、さびしいけど、きらいじゃない」


 ひよりは、まどのほうを見た。

 まどのむこう、そらはくらくて、でも、まんまるのつきがうかんでいた。


 「ぼくのところは、よるばっかりなんだ」 「くらいの?」

 「ううん、くらいけど、くらすぎない。ときどき、ひかりがとおるんだ」


 ひよりは、あおとの目を見つめた。

 その目のなかには、まるでおおきな空のような、深いあかるさがあった。


 「あっちって、こわくないの?」


 「うん。ないよ。みんな、しずかにしてる。だれもさわがないし、ないてない。

 おもいでを、だいじにしまってる」


 「おもいで……」


 「ひよりのケーキのあじも、そのひとつになるかもね」


 ひよりは、くすっとわらった。


 「おいしかったよ、すっごく」

 「そっか、よかった」


 ふたりは、しばらくだまって、ただ、そらをながめた。

 カーテンのすきまから、つきのひかりがのびて、ベッドのうえをやさしくてらしていた。


 「ねえ、あおと」

 「なあに?」


 「わたし、まだ、こっちにいたい」

 「……うん。だいじょうぶ。こころが きめるまで、ちゃんとまってる」


 あおとは、そういってたちあがった。


 「そろそろ、いくね。あさがくるから」 「また、くる?」

 「もちろん」


 ふっと、あおとのすがたが、ひかりのなかにすいこまれていく。

 でも、きょうは声がのこった。


 「ひよりは、まだ ひかってるよ」


 そのことばが、やわらかく胸にのこる。

 ひよりはそっと目をとじた。


 まどのそと、つきのひかりが、かすかにゆれている。

 さびしくはなかった。







 あさのひかりが、まどのカーテンのすきまから、そっとのぞいていた。


 ミルクいろのそらが、へやの中にやわらかくしみこんでくる。


 ひよりは、目をあけて、すこしだけまばたきをした。 きのうより、からだはつかれていた。

 でも、こころは、なんとなく、かるくなっていた。


 「……あおと、ほんとうに、いたのかな」


 そうつぶやくと、だれもいないはずのまどべが、ふわっと光ったように見えた。


 おかあさんが、ケーキののこりをもってきた。

 白いおさらに、いちごだけが、ちょこんとのっていた。


 「さいごの いちご。ひよりの、いちばんだいじなとこ」


 ひよりは、そっとスプーンを手にとる。

 そして、いちごを見つめた。


 「あかくて、まるくて……

 さいごって、こんなに きれいなんだね」


 そのことばに、おかあさんはなにも言わなかった。

 ただ、やさしく、ひよりの髪をなでた。


 ひよりは、いちごをすくって、くちにいれる。


 ──あまい。 ──すこし、すっぱい。

 ──でも、どこまでもやさしい。


 くちのなかに、ひかりがひろがったようだった。


 ぽろり、と、なみだがこぼれる。


 「おいしい……」


 たったひとことが、胸のいちばん奥にひびいた。


 おかあさんが、そっと手をにぎる。

 ふたりの手が、あたたかくつながった。


 そのときだった。

 まどの外が、ふわりと光った。


 声がきこえた。


 「あじ、わすれないでね」


 ひよりは、にっこりして、こたえた。


 「うん。いちごのあまさ、ちゃんとおぼえてる。もう、こわくない」


 声は、それだけをのこして、やさしくきえていった。


 へやは、しずかだった。

 でも、なにかが、ちゃんとそこにのこっていた。


 ひよりは、そっと目をとじる。

 まどのカーテンが、やさしくゆれた。


 点滴の音が、ことん、ことん、とつづいている。


 おかあさんが、小さな声でつぶやいた。


 「ひより……ありがとう。

 わたし、ずっとこのケーキのあじを、おぼえてるからね」


 ミルクいろのそらが、しずかにひろがっていた。

 ひみつのいのちのケーキは、たしかに、ここにあった。




(おわり)

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