第31話 子離れの第一歩
『そんなわけないやん。なあ何歳?』
『咲良は結婚しなくていい』
『おかあさーん、何歳から結婚できるん?』
洗濯物をたたんでいた私に火の粉が飛んできたので正直に答える。
『十八歳』
『裏切り者め』
『十八歳? 遅いなあ。早く葵君と結婚したいなあ』
『さくら……オトウサント、ケッコンスルッテ……ユッテタヤン』
『それは小さいころの話やん。今はもう違うの』
本当に具合が悪くなった夫が寝室に引き上げてしまったので、家事が終わって様子を見に行くと、ぐうすか眠っていたので放っておくことにしたのは一週間前のことだった。子どもは成長するのだという当たり前の事実に改めて思い至る。
いつの間にか申し訳程度の野菜と肉も売るようになった巨大な薬局が見えてくる。薬局のイメージも変わったなと思わざるを得ない。私が思う薬局とは、何かの医院の横にある狭くて小さな建物のことで、入りづらくて少し不気味なイメージもあった。目の前にある、自動扉が開け放たれた巨大な建物を眺めながら自転車を止めた。ここを薬局と呼ぶことには未だ違和感を拭えないが、どうやら他のママ友よりもやや古いらしい自分の価値観を悟られないよう、時代は変わるのだと言い聞かせる日々だった。
まだ夫には黙っているが、咲良がメイクをしたいと言っていたので色付きのリップクリームを買う約束をしていた。どんな種類があるのか下調べをしておくべきかもしれないと思い立ち、店に入ることにした。
『咲良がメイクしたら葵君喜んでくれるかな』
恥ずかしそうな様子を思いだし、彼女には未来が無限に広がっているんだという喜びと羨ましさに胸が温かくなる。彼女の未来が少しでも明るくなるように私も手伝いたい。
手伝いたい?
今までは、ほかの女の子に比べて活発な咲良を抑えつけることに必死になっていたが、厳しくし過ぎていたのではと思うようになっている自分がいた。葵君のお母さんの影響かもしれない。
棚にあるメイク用品の数の多さに圧倒されてしまい、買う前にスマホで調べる必要があると気づいた。ファンデーションはまだ早いだろうが、リップと一緒に日焼け止め成分の入った下地くらいなら買ってもいいかもしれない。もし買うならできるだけ肌に優しい成分を選びたい。
そろそろ買おうと思っていたおやつと、咲良の歯みがき粉を買って店を出る。冷たい風に出迎えられ首をすくめながら、園庭で遊ぶ咲良と葵君を想像し自転車を走らせる。
葵君のお母さんの子育てが正解だとは思わない。でもそれは裏を返せば自分の子育てもすべてが正しいわけではない、のかもしれない、という思いが浮かんでは消える。この考えは受け入れたくないので考えないことにする。
赤信号で止まった。
でも、いつか、咲良も一人で生きていくんだ。いつまでも私の言うことを聞いてくれるわけではない。というか今も全然言うこと聞いてくれないし。
咲良も一人の人間なんだ。
唐突に気づいた。
私と同じってこと?
視界がパッと明るくなったような気がした。
そうか、やっとわかった。咲良も一人の人間なのだ。だから衝突するのだ。この大発見を葵君のお母さんに話せば何と言ってくれるだろう。
信号が青になったのでペダルをこいだ。
でもきっと、彼女はとっくの昔に気づいているんだろうな。よく知らないが苦労続きの人生で時々おばあちゃんみたいな考え方をする彼女にそれを伝えても「何をいまさら」と思われるだけだ。そのくせ初めて聞いたみたいな顔で頷いてくれる彼女を想像し、嬉しいようなうんざりするような、まさにおばあちゃんに対して抱くような感情が胸をよぎる。
今度の土曜日は私が試されるときだ。井戸端会議は絶対に譲れない。でも、もう少し子どもたちの目線に立てば、見えてくるものがあるのかもしれない。
ママ友が自転車を走らせてくるのが見えたのでブレーキをかけた。土曜日に公園に行くことを伝えると一緒に来てくれるらしい。もう少し話したかったが、相手があからさまに急いでいたので手を振って見送った。あとはメッセージのやりとりで大丈夫だろう。
みんな忙しいな。
相手の立場に立てば、避けて通れるすれ違いも意外にたくさんあるのかもしれない。
そんなことを考える自分に驚く。いやだなあ。どんどん葵君のお母さんに感化されている気がする。
よそはよそ。うちはうち。我が家までもう少し。今日の晩ごはん何作ろうかな。
最後の赤信号で止まる。視線を上に向ければ薄い雲が空を覆っている。青空も太陽も見えなかったが、不思議と気分は上々だった。
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