第28話 ボランティアの康ちゃん(3)

 心がざわつくのを抑えるために胸に手を当てる必要があった。

 本当はもっと彼女と一緒に話がしたい。でも、僕に興味などないことは会話を重ねればすぐにわかることだった。僕はただの「朝のおっちゃん」だ。毎日ひと言でも言葉を交わせることが嬉しい。彼女はほかのお母さんと違って僕をきちんと人間扱いしてくれる。口が裂けても言うはずがないし、態度にも出していないはずだった。でも、ここに立つのが本当は面倒に思っていることを理解してくれていた。立ってしまえば毎日やりがいがあって楽しいこともまた、理解してくれていた。僕はそれに気づいてしまった。

 気づいた瞬間、恋に落ちた。七十を過ぎた自分がまさかそのような気持ちになるなんて、考えたこともなかった。子どもが好きで、毎日当たり前に立っているボランティアのおっちゃん。彼女以外のほぼ全員がそう思っているだろう。本当は毎日、結構な重さの憂鬱を布団と一緒にはねのけているなど、妻でさえ知らないだろう。

 でも、彼女は違う。あおい君を園に送り届けた帰りと、僕の引き上げる時間がたまたま合った帰り道、わざわざ降りてくれた自転車を押しながら彼女は言った。

『いつもありがとうございます』

 こちらをそっと気遣うような言い方だった。それで十分だった。通じたと思った。

 知り合いからの飲み物の差し入れや、孫がくれた首にかける扇風機のプレゼントも、もちろん嬉しい。今までボランティアを続けて良かったと思う。それでも彼女の「ありがとう」は、僕を舞い上がらせるのに十分だった。


 ただ少し心配なのは、ほかのお母さんたちと話しているところをほとんど見かけないことだった。鋭い洞察力のせいで他者より傷つきやすいためか、人と接するときは壁を作ってしまうのかもしれないと最近考えるようになった。

 光夫さんが戻ってきた。もうそんな時間か。旗を振って挨拶に代える。

「ちょっと疲れたから、早いけど先に上がらせてもらってええかな」

 光夫さんはがんサバイバーで、定期的に通院している。そうでなくても、無理をすればどこかでしっぺ返しがくるようになってしまった老骨を酷使するのはご法度だ。

「ええよ。今日は病院?」

「いや、来週。まだあの子来てないんや。無愛想な中学生」

 そう言われてすぐに顔が浮かぶ。いつ見てもうつむき加減で歩いているあの男の子だ。

「ああ分かった。あの子な。あと、ともや君もまだや」

「ほんまやな。いつも遅い子やな」

 去り際に友達が呼んでいるのを聞いたり、自分で教えてくれたりするのを聞きながら一人ずつ名前を覚えていく。手のかかる子ほど覚えるのは早かった。

「光夫さん、帰ったら水分摂りや」

 光夫さんは丸めた旗を背中越しに軽く振って帰っていった。

 一つ深呼吸をする。さてここからは一人だ。


 ランドセルを背負って走り去っていく仲良しグループに「気をつけてやあ」と本気で声をかけ、ともや君に「遅刻したらあかんでえ」と笑顔で発破をかける。僕を避けるように歩いてきた例の中学生には遠くから「おはよう」とだけ声をかける。

 みんなまた明日。当たり前の明日が、当たり前に来ますように。

『子どもたちが学校でお勉強できる。それが平和ってことや』

 戦争について水を向けられた母のいつもの口癖だった。戦争から奇跡の生還を果たしたものの、恥かきっ子と揶揄された僕の弟の顔を見ることもなく病死してしまった父。戦死できなかったことを最後まで悔やんでいた父を陰で支えた母。

『お父さん、うなされてた。今日はひときわうるさくて目が覚めた』

『康ちゃんは? 眠れた?』

 いつも暗いところにいたというのが姉二人の唯一の戦争の記憶だそうだ。戦後生まれの僕に記憶はない。けれど、父が毎晩のようにうなされて絞り出す声を夢うつつで聞いていたことが僕にとっての「戦争の記憶」だ。

 不愛想な中学生の背中を見送ったあと、万歩計の歩数を確認した。いつもより四百歩ほど多いことを確認してほくほくする。光夫さんが早めに帰った日はだいたいこんな感じだ。

 ともや君に会えた。中学生も見送った。さあ帰ろう。

 旗を丸めて歩き始める。今日も事故はなく無事に終わった。彼女にも会えた。それで十分幸せだった。

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