第27話 ボランティアの康ちゃん(2)
あの人はいつも、かなり遠くから手を振ってくれる。危ないから手を離してはいけないよと一度言ってみたが、どうしても手を振りたいのだというのが何となく伝わるので、もう言わないことにした。後ろに座る子どもは確かあおい君という名前だったはずだ。何度か名前を聞いたがどうにも自信がない。重ねて聞くのが申し訳ないのと恥ずかしいのとで結局名前はうやむやのままだ。
見守りボランティアに参加する前の講習会に出席して一番驚いたことは、登校する小学生や中学生に名前を尋ねてはいけないと釘を刺されたことだった。放課後の教室で「絶対にやめてください」と女性教員が強い口調で懇願していた。時代は変わったと思わざるを得ない出来事だった。
今日は後ろに座った年中さんが僕を見て騒いだので慌てた様子で止まってくれた。「こらあおいやめなさい」と言っているのが聞こえる。名前が合っていて安心する。ナイスあおい君。
「おはよう!」
「おはようございます」
毎朝このために起きていると言っても過言ではないので、話し過ぎないように自制しながら近づく。まだまだ若者たちと肩を並べられると思っていても、彼らと実際に会話をすると、驚くほど自然な流れで僕を年寄り扱いしていることに気づかされるのだ。内心で腹立ちを覚えながらも、自分の年齢を直視せずにはいられなかった。
ええなあ。僕も少し前までそっち側だったのになあ。
「康ちゃーん!」
「今日も一日がんばろうなあ」あおい君と握手しながら声をかける。
「康ちゃん、いつもありがとうございます」
名前を呼ばれてドキドキしてしまう。
「こちらこそ! もうすぐ涼しくなるから頑張るわ」
そういえば、あなたのお名前はなんていうの。
あと一歩が踏み出せず、今日も彼女を見送る。
「はい。では行ってきます」
片手で拳を作る彼女の姿を頼もしく感じたので、僕も顔の横で拳を作る。
「行くよ葵。ほら手離して」
そう言われて離さないなのがあおい君だ。いいぞいいぞもっと掴んで。できれば一生離さないで。
「咲良ちゃんに会いに行くよ」
パッと手が離れたのを確認し、あおい君のお母さんが自転車をこぎ始めた。
角を曲がるまで手を振り続けてくれるあおい君に大きく手を振り返す。こういうときに叱りつけない彼女の考え方が、素敵だと思う理由の一つだ。もちろん最終的には叱ることもあるだろうが、時間が許すまでと自分の予定を曲げられる器の大きさが彼女には備わっていた。きっとたくさんの苦労の経験が、彼女の器を少しずつ広げていったのだろう。
黒いビジネスバッグを持ったいつものサラリーマンの男性に声をかけると、今日はめずらしく立ち止まってくれた。顔をゆっくり見るのは初めてで、メガネの奥のまなざしが意外に若いことに気づく。
「朝起きるのが辛いときでも、康ちゃんに挨拶するために起き上がるんですよ。いつもありがとうございます。励みになっています」
照れたような顔で意を決して言ってくれたのがわかった。望外の喜びに胸が熱くなる。
「ほんまに。ありがとう」
全部を言い終わる前に子どもを乗せた自転車が強引に追い抜いて行った。挨拶を交わす間もなく遠くなっていく背中を見送る。
「本当にマナー悪いですよね」
よくあることなのであいまいに返事をすると、我慢ができないといった様子で男性の口が開いた。
「僕は仕事でよく車を運転するんですけど、マナーが悪い自転車ってだいたい子ども乗せがついてるんですよね。子どもが乗ってるんやからもう少し安全運転に気をつければいいのに。赤信号で平気な顔して渡ったりしてて。子どもが見てるのにね」
「そうやね。赤信号はあかんね。でもええやんか。君は安全運転ですばらしい!」
励ますように背中をぽんとたたく。自分も少し前はこうだったと、眩しい気持ちで見送った。お母さんという役職がどれだけ忙しくて大変かを説いたところで、相手はそんな話を望んでいない。みんな忙しい。みんな大変。
持参した水筒で水分補給をしていると、自転車に乗った高校生が「康ちゃん!」と呼んでくれる。短い呪文のような言葉を僕に投げかけて通り過ぎていった。きっと学校で流行している言葉なのだろう。後ろ姿に向かって「いってらっしゃい」と言葉をかけた。今日は背中にギターかベースの入った何かを背負っている。大きくなったなあ。この前までランドセルを背負っていたのになあ。
自転車に乗ったお母さんのグループが通りかかったので「おはよう」と声をかける。自分たちの会話を中断することなく、おざなりの挨拶で通りすぎていく。念のため探してみたが、やはり彼女はいなかった。
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