第26話 ボランティアの康ちゃん

 九月 朝の登校を見守ってくれるボランティアのこうちゃんに挨拶とお礼を言う。仕事を引退したにもかかわらず、子どもたちのために毎朝ボランティアを続けてくれることは尊敬していた。暑い日が続いてうんざりするけど、元気な声が聞けて本当に感謝。少しの時間だけど貴重な話し相手なので毎日会うのが楽しみ。朝起きて一番に康ちゃんの顔が浮かぶこともある。夫より好きかもしれない、なんてね。


 黄色い旗を持っていつもの道に立つ。どこにでもある信号のない小さな交差点だ。ここに来ると、ここが自分の場所だと思う。立っているだけで汗が噴き出すような日々も、少しずつ過ぎようとしていた。朝七時四十分。小学生の姿はまだない。

康一こういちさん。おはよう」

 振り向く。ボランティア仲間の光夫みつおさんが歩いてくるところだった。彼はここから五十メートルほど離れた横断歩道を担当している。

「おはよう。今日はちょっと涼しいなあ」

「そうかあ。まだまだ暑いで」

「そうやなあ。まだ暑いわなあ」

 黄色い旗を持った光夫さんの背中を見送る。男同士の会話が長く続かないのは、おそらく共感力が乏しいからだろう。悪気はないのだろうが、相手と意見が違った場合でも無神経に自分の意見を発言する男が多すぎる。僕は自分の意志で妻の尻に敷かれることを選んだ、この世代にしては希少な男だ。プライドを少しだけ脇によければすぐにわかる。人は共感を求めている。女性は特に。

 エンジン音をふんだんに振りまいた乗用車が横を通り過ぎ、黄色に変わった信号めがけて駆け抜けていった。パトカーも、小学生も老人も、たまたまいなくてよかったね、と言いたくなるようなスピードだった。旗を道の端に置いて準備体操を始める。気を引き締めよう。今日も安全に子どもたちを見送るのが僕の役割だ。集団登校のないこの地区の子どもたちは交差点を一人で歩く割合が高い。でも学校に近い場所でボランティアをしている岩橋さんにこの話をしてもあまりピンときていないようだった。きっと学校が近づくにつれてクラスメイトの顔が増え、自然に連れ立って歩くからだろう。

「おっちゃん!」

 自然に顔がほころぶ。振り返ると、ランドセルを背負った男の子が片手を上げていた。

「おはよう。今日は早いなあ。一人か?」

「うん」

 いつものようにハイタッチを済ませ、少しだけ一緒に歩く。

「なんで。いつもの友達は?」

「いいねん」

 少しうつむき気味に答える。喧嘩でもしたのだろうか。

「そうか。まあたまには一人もええな」

 返事はもらえなかった。悟られないように顔色をさっとうかがう。

「いってらっしゃい!」

 最後に声をかけて歩みを止める。僕にできるのはここまでだ。首にかけたタオルで汗をぬぐいながら男の子の背中を見送る。もう少し先に光夫さんがいる。

 いつの時代も子どもは大変だ。集団生活が楽しいことばかりではないことはよくわかっているつもりだ。だって僕、経験者やし。でも、今の子どもたちには申し訳ないけれど、僕たちの子どもの頃のほうが楽しかったような気がする。大人たちも今よりいきいきしていたような気がする。

 信号待ちの間に光夫さんと話をする男の子のランドセルを眺めた。光夫さんは自身が昭和生まれであることに誇りを持っていて、僕のように愛想を振りまくタイプではない。口数は少ないし本人から聞いたわけではないけれど、子どもたちの未来を思ってボランティアを続けているのは、彼を見ているだけで伝わってきた。

 年齢を重ねてわかったことがある。それは今の日本を作ったのは僕たちだということだ。子どもたちよ、楽しいか? 僕たちがやってきたことは、間違っていないか?

 会社の前をほうきで掃く作業着姿の男性と挨拶を交わせば、遠くからこちらへ歩いてくる子どもたちがぽつぽつ見えてくる。踏ん張れ子どもたちよ。僕も頑張るから。

 もとの場所に歩いて戻る途中で、道路を挟んで向かいの歩道を歩く女子中学生の二人組に声をかけた。二人組はいつも通りぺこりと頭を下げて歩いて行った。

 そろそろだ。腕時計を見る。後ろに年中さんを乗せて、あの人が自転車で通り過ぎる。そわそわする気持ちを悟られないように、学生たちを探すふりをしてあの人を待つ。待ちきれずにあの人が通る道を目で追ってしまう自分を戒めていると、周りを確認しながら角を曲がってくる自転車が見えた。あの人だ。

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