第25話 松井先生(4)
「松井先生お電話です」
またか。出てみると葵君のお母さんだった。こども園に行きたくないと言っているので少し遅れますとのことだった。多少無理してでもいいので連れてきてくださいとお願いして電話を切る。珍しいなと思う。葵君の行き渋りは年少の頃にもあったが、泣くのは初めの二十分くらいで、すぐにいつも通り遊んでくれた。機嫌が直ってからは帰りたいと言わないので葵君の場合は問題のない行き渋りだと判断したはずだし、実際すぐに治まったはずだ。ここ数日の葵君に対する自分の言動に問題がなかったかを思い返す。
葵君のお母さんといえば、毎年四月に全学年合同で行われるお店屋さんごっこの参観で印象に残っていることがある。
茶色の毛糸で作られた焼きそばを透明のパックに入れて輪ゴムで留める、という簡単な作業に手こずる年少の店員さんに、客になった彼女がさりげなく手を差し伸べているのを後ろで静かに眺めていた。店員の右手は箸を持ったままで、箸を置いて両手を使えば簡単に輪ゴムを通すことができる。それを大人が指摘しむやみに手伝うと劣等感を抱かせることがあるのであえて見守っていたのだが、彼女はパックを両手でそっと包み、片手でも出来るようにサポートしていた。五本の指を不器用に使いながら輪ゴムをかけた瞬間、年少児が箸を置いて喜んだ。
箸を置くタイミングは完全に間違っていたが、お客さん役の彼女は大げさに喜んでくれていた。「右手の箸」と「輪ゴム」は手伝ってはいけないことを瞬時に悟り、手を差し伸べる。保育士でもある程度経験が必要な素早い判断を彼女は当たり前のようにやっていた。おそらく意識しているわけではなく、今までの経験からくる自然な動作だったのだろう。
職員室を出る。
『いつもありがとうね。頼りにしてるよ』
夜六時十五分。保護者のお迎えを待つ園児が残り一人になり、お腹空いたねとしゃべりながら園長と一緒に相手をしていたときに言われた言葉だった。いつの間にか園の中で自分の立ち位置が調整役になっている自覚はあったが、それに対する感謝を言葉にされたのは初めてだった。半年前のあの言葉が砂場の失敗の遠因になったのかもしれない。褒められたときほど気を引き締めなくてはいけないと分かっているつもりだったが、知らぬ間に自信と傲慢をはき違えてしまったことを情けなく感じる。
もう二度としない。二度としないためにはどうすればよいかを考え、行動に移す。保護者のことは例外なく好きになれないが、保護者自身の命よりも大切な宝物を預かっているのだという自覚を持ち続けなければいけない。無意識にポケットに手を入れると、さっき廊下で拾ったブロックに触れた。小さい組さんは間違えて食べてしまうかもしれないので持ち出さないと、園児と約束しているのだがどうしても間違いはある。人形劇で注意喚起をしてみようか。
「ああ、りすさん、たべちゃだめだよ!」
同僚と人形を操りながらしゃべる自分を想像し、ふふと笑う。
ブロックを握る。さて今日もやるか。まずはブロックを片づけようと年長児の組に向かう。もし葵君が来たらたくさん褒めてあげよう。毎日来てもらえるようにするのが私の仕事だ。
「あれ、松井先生どうされたんですか」
ピアノの指ならしをしていた年長児の担任の加藤先生が手を止めて立ち上がる。彼女は保育士としての経験は確かだったが長く時短勤務だったため担任を任されることは一度もなかった。時短勤務を終えて常勤になり、初めて任される担任が年長児だと分かり泣きながら相談されたのは半年前のことだった。年長児は年間のすべての予定が「最後の行事」となり、三月の卒園式に向けて保護者の期待も自然と高くなる。園通いに慣れて図々しい年長児の保護者を相手に、私も一緒に加藤先生と奮闘していた。
「年少組の廊下に落ちてたよ」
ブロックを見せると先生が青ざめた。
「本当ですか! 今日の掃除機は私です。気づけなくてすみません」
正直でいいな、と思った。ごまかして言い訳をしても良いことはないとすでに経験しているようで、その過程を理解してもらう必要がないことは楽だった。年長児の担任として彼女は適任だったと思う。園長の人を見る目にはいつも舌を巻く思いだった。
「園長先生と相談してからやけど、もう一回人形劇でブロックを扱ってみようかなと思うねん」
「食べちゃうから、みたいな」
「そうそう。こっそり持ってきたのはいいけど、忘れて置いて帰っちゃう、みたいな」
「いいですね」
ブロックを箱へ戻し、雑談を終えて教室を出る。
指ならしの音色を背中で聴きながら廊下を歩く。松井先生大好き。一番のほめ言葉を胸に抱きながら、今日もそう言ってもらえるように大きく一度、深呼吸する。
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