第24話 松井先生(3)

 あのときごめんなさいと謝った葵君は何もしていなかった。

 保育士になって六年。入れ替わりの激しいこの業界で生き残るにはある程度の狡猾さが必要だった。保護者に期待しても良いことはないと気づいてからは適度に距離を保つよう努め、仲良くなっておいた方がいい保育士の見極めに力を入れることにした。初めの一年は、正しさよりも常に多数派につくことを学んだ。運も良かったのだろう。嘘みたいに毎月新人が入っては出ていくので、二年が過ぎた頃には先輩よりも後輩の数が多くなっていた。

 砂場の失敗は、保育に傲慢さが出ていることの表れだった。私は上手くやっているなんて勘違いも甚だしかった。

 お迎えに来た葵君のお母さんには、すべて包み隠さずに話をした。

『葵は、僕じゃないって言えなかったんですよね?』

『そうです』

 罪を代わりに被ってあげたわけではない。私の剣幕に臆し何も言えなかっただけだ。いくら怖かったとはいえ、自分がしていないのならそう言えるようになった方が良いに決まっている。それを伝えたかったが、こちらが犯人に仕立て上げてしまった手前、言いづらかった。親が完璧でないのと同じように、完璧な保育士も存在しない。

 一方的に責められてもおかしくなかった。悪いのは、泣く女児の言葉を鵜呑みにしてしまった私だ。

 葵君のお母さんは、私を責める言葉は一切言わなかった。保育士も失敗するという当たり前の事実を、濡れ衣を着せられた当事者にもかかわらずあっさりと受け入れているようだった。先生も人間だから失敗しますよね。そう言えるのは、濡れ衣を着せられたことのない保護者だけだと思っていた。

 目の前の人間は自分より大きい器を持っている。それを認めざるを得なかった。

 この人はきっと、葵君と一緒にいることで様々な煮え湯を飲まされてきたはずだ。その苦労の一端が、私を手放しで許したことで垣間見えた。自分の傲慢さが恥ずかしかった。

『葵はこのことを知っていますか』

『はい。泥をつけた年長さんと一緒にすぐに謝りに行きました』

 わかりました、と言った彼女は最後に一言を残し、葵君と手をつなぎ笑顔で一礼して園をあとにした。

『明日もよろしくお願いします』

 この人は、私の心中をすべて悟ったうえで言葉を放ったのだ、ということがわかった。今の私にはこの言葉が一番効果があることを理解していた。照れたような笑顔を見せた彼女はすぐに背を向けて帰っていった。更衣室に走る。涙が止まらなかった。なぜ泣くのか、後悔なのか何なのかわからなかった。心が締め付けられ、温かく緩んでいくのを止められなかった。なんて寛大な言葉だろう。私がもし逆の立場だったとしても絶対に出てこない言葉だった。自分の子どもが濡れ衣を着せられて何も思わないはずがない。すみません。ごめんなさい。ありがとう。許してくれて本当にありがとう。

 クラスの顔ぶれが気に入らないから変えてくれ、担任も気に入らないから変えてくれ。年々わがままになる保護者の対応に心を削られ、殺伐とする園内の雰囲気が嫌で次々と辞めていく保育士たち。複数の保護者から園医先生を変えてほしいと言われたときは仰天した。病院での対応が気に食わなかったから。誤診されたから。

 子どもの病気がどれだけ膨大な数にのぼるか知っているのだろうか。人間だから間違いはある。病院へ行くタイミングによって出てくる症状も変わるだろう。医師はその場で分かる情報から判断するしかない。今までの経験から、診察の際に保護者が子どもの様子などの情報を正確に医師に提供しているのかも甚だ疑問だった。

 保護者の介入により救われた園児もたくさんいるのは理解している。ただ、そんなに嫌なら転園したらどうですかと言いたくなる親が毎年一定数いるのも確かだった。年を追うごとに保護者の扱いについて同僚から相談される回数が増え、そのたびに解決策を一緒に探した。どうしても見つからない場合は、いつか卒園するからと寄り添い、保護者と一対一にならないように周りの保育士でカバーするなど、できる限り接点を持たないように配慮するしかなかった。

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