第23話 松井先生(2)
朝の八時までに掃除機は終わらせているはずだった。年少組の廊下に落ちているブロックを拾いながら疑問が湧く。このブロックは年長用なので年少児は使えないはずだった。
「松井先生お電話です」
返事をして職員室へ向かう。どうしてこれがここに落ちているのだろう。今日の掃除機は誰がかけたのか。とりあえずポケットに入れてから職員室へ入り、受話器を取った。最近はヘルパンギーナと手足口病が流行しているので、あと数人が休むと学級閉鎖を考えなくてはならないだろう。園医先生の気難しい顔が浮かぶ。近隣の小児科の開業医で、誰に対しても分け隔てなくぶっきらぼうで有名な先生だった。私はその医院に行ったことはないが、医者としての腕は確かなものの、患者に対する態度が冷たく感じるらしく、感染症流行期以外の院内は空いているらしかった。
電話を切る。子どもが発熱したので休みます、とのことだった。保護者の仕事は大丈夫だろうか。たまに子どもが園内で発熱した場合に保護者のお迎えを頼んでも、迎えが来るまで一時間以上待つなんて当たり前になってきている。ここ数年は共働き世帯が急速に増えつつあるのを肌で感じる日々だった。
気が滅入る。もし学級閉鎖になったら保護者の反発は避けられないだろう。しわ寄せが保護者に向かうのは仕方がないとはいえ、子育てをしている人間が冷たい視線にさらされるようになって久しい。突然休んだり早退してしまう保護者の仕事を肩代わりさせられる側の不満を、長年ないがしろにしてきた結果だろう。
憂鬱の理由はもう一つあった。
一か月前の園庭での出来事だった。園児五人と先生二人で砂場遊びをし、園児三人と私が大きな山を作り、園児二人と先生一人は泥だんごを作るグループに分かれていた。山作りは園児三人のうち、一人は葵君で残る二人が年長児だったため本格的なものとなり、バケツに水をくんで水をつぎ足しながら迫力のある山を作っていた。その後トンネルも無事開通し、お団子作りにいそしむ園児二人と先生も一緒に喜んでくれた。
『松井先生お電話です。砂場代わります』
職員室から走ってきた先生に返事をする、一瞬の気のゆるみだった。山作りをしていた年長の女児が突然泣き出した。見ると、背中から腰にかけて泥がべたり、と付いていた。
『あおいくんがつけた』
今思えばあのときにおかしいと思うべきだったのだ。大泣きする女児の言葉を鵜呑みにし、私は電話に気を取られ、泥だんごの先生は、完成した泥だんごを園庭のどこに置くか園児と相談していて、葵君が泥をつけたところは誰も見ていなかった。
『葵くんがやったの』
女児の隣にいた葵君が口をぎゅっと結んで見つめてくる。その目を見返しながらさらに言葉を足す。
『葵くんがやったの? やってないの?』
そう聞いたものの最初から決めつけていた私は、何度追求しても貝のように口をつぐみ、こちらを見つめて何も言わない葵君に感じる苛立ちを抑えるのに必死だった。大声を出して委縮させるのは心理的虐待です──。半年に一度、順番に参加させられる研修で耳にたこができるほど聞いた話だった。最近は静かにできる時間が増えたものの、年少の頃からトラブルの多かった葵君を嫌っている先生がいるのも知っている。
園児同士のトラブルに保育士として関わりながら解決に手を貸す。砂場のできごともそんな関わりの中の一つだった。女児の保護者に謝罪し、葵君のお母さんに「私たちが目を離したすきに泥をつけてしまいました」と報告したあとは、私にとって完全に終わった話になっていた。
雨の日だった。複数の園児と一緒に折り紙をしていて、赤色ばかりを使ってしまう園児にほかの色も使うよう声をかけたり、めずらしく平穏な時間を過ごしていた。
『僕な、前に〇〇ちゃんに泥つけたやろ』
瞬時に思いだした。目の前にいるのは、一か月前に一緒に山を作っていた年長児の男の子だった。ぞわりと冷や汗が出る。ここで追及するようなことを言ってはいけないことは経験上わかっていた。何気ない風を装って尋ねる。
『泥つけたの、君だっけ』
『うん。僕やで』
悪意の匂いは一切なかった。この年長児はあのときどこにいたのだろう。葵君がやったと即座に決めつけてしまったため記憶はあいまいだった。女児の近くにいたような気もする。いや、おそらく近くにいたのだろう。本人に聞いたところで細かい記憶はもう残っていないと知りつつ、念のため確認する。
『どうして泥をつけたの』
『忘れた』
でしょうね。
顎を上げ、ため息をついた。
やってしまった。失敗した。
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