第22話 松井先生

 七月 先月砂場遊びをしていたときに、葵がお友達の制服に泥をつけてしまったと松井先生から報告があった。後日、泥をつけたのは年長さんの誰かで、葵ではなかったと謝罪があった。驚いたが、葵でなくてよかったという安心感の方が大きい。葵は私が叱って育ててしまったからか、怒られたときは口をつぐんで何も言えなくなってしまうことがよくあった。今回の誤解が生まれた理由もそのあたりと関係しているのだろう。松井先生はたくさん謝ってくれたが私の育て方にも悪いところがあり、なんだか申し訳ない気持ちになった。


 朝六時五十分。今日は早出なので身体の中に眠気が残っている。門の前であくびを終わらせ、おはようございますと言いながら更衣室の扉を開ける。年齢が一つ違いの比較的気の合う先輩が挨拶のあとに続けて言った。

「噂の松井先生の登場です」

 何のことかと思ったが、聞き返す必要はなかった。

「私は葵君のお母さんじゃなくてほんまよかったわ。あんな育てにくい健常児なんか絶対嫌や」

 あはははと周りの保育士が笑う。保護者の悪口が日常茶飯事の更衣室では当たり前の光景だった。この程度ではむしろ悪口ですらないだろう。葵君が年少の頃に受けた発達相談の結果がまさかの問題なしだったことが、その日のトップニュースとして園内を駆け巡ったことを懐かしく思いだす。

「診断されたら行政の支援受けられて楽やったのにねー」

「グレーゾーンは?」

「それも違ったやんな?」

「でも最近の葵君ってやっと大人しくなってきたんちゃう?」

 松井先生どう? と言う顔で周りの目が集まる。

「んー。まあ年少の頃よりましかなあ」

 まだまだ手がかかるというニュアンスをふんだんに残しながら答える。それを期待されているからだ。

「ほんまおつかれさまやでー。二年連続とか園長もやるなあ」

「あれやろ。──ちゃんと葵君って同じクラスにできひんし、〇〇君の親が担任は松井先生がいいですってなったら、クラス編成はこうするしかないってやつ」

「パズルのピースみたいやな」

「ほんまそれ」

 あはははと笑いが起こる。以前はもっと楽しめたはずだったが、かといってこれまで通りに振る舞うことなど造作もないことだった。これも仕事と割り切れば一緒に笑うことに対する罪悪感もない。手早く着替えてエプロンを付け、更衣室をあとにした。

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