第20話 聖斗君のお母さん(2)

 それ以上口を開くと暴言が飛び出すことは分かっていた。「怒ったときのお母さん」を察したのか、聖斗は目の前の食事に集中することを選んだようだ。

『奈々ちゃん背の順でまた一番前やなあ』

『また奈々ちゃんと同じチーム? 絶対負けるやん。嫌やなあ』

『奈々ちゃんは走るの遅いから入れてあげへん』

 いつもよりひどい仲間外れに耐えられず泣きながら帰った私に、母は言った。

『奈々は悪くない。そんな意地悪を言ってくる子とは遊ばなくていい』

 言い切った母の力強さに安心する。そうか。私は悪くないのか。

『誰に言われたの』

 翌日、教室で先生に叱られる子どもたちを見てはっきりと理解した。仲間外れは慎重に。やるときは逃げ道を作ってから。仲間外れに加担した子どもたちはみんな泣きながら私に謝った。私は悲しい顔を取り繕うのに必死だった。大きくなってから「ほくそ笑む」という言葉を知ったとき、とっさにあの場面が頭に浮かんだ。


 おかわりと言いながら立ち上がり、炊飯器に向かう聖斗の後ろ姿を眺める。

『このへんの人たちの中では葵君のお母さんが一番信用できるから』

 あの人の家の隣に住む、子どものいない中年夫婦の奥さんが言っていた。柴犬を一匹飼っていて、一日二回の散歩と庭いじりが趣味の平凡な夫婦。

 散歩の行き帰りや庭いじりをしているときも、奥さんは『あの人』に関する私の陰口を聞いていたのだろう。あのときの私は子どものいない奥さんの存在なんて気にもしていなかった。いないも同然だった。

 ある日、お風呂あがりに旦那さんが自宅で転倒して動けなくなり、動転した奥さんは救急車ではなくあの人に助けを求めたそうだ。

 うらやましいと思ってしまった。私も言われてみたい。他人から、『私が一番信用できる』と。

 一生かかっても無理だと分かっていることが死ぬほど腹立たしかった。私のような人間が人から信用されるわけがない。

 あの人。考えるのも腹が立つ。胸糞悪い。あんな人、早く死んだらいいのに。早く不幸になったらいいのに。一度だけ深呼吸し、叩きつけた箸を持ち直す。

「お父さん遅いなあ」

「せやな」

 私はあの人のようにはなれない。それを認めるくらいなら死んだ方がましだった。

 私のほうがコミュニケーション能力が高くて友達も多いのに。話題も多いし、顔も整っているのに。

 初めはみんな聞いてくれた。あの人の陰口を言えば、みんなが私の味方をしてくれた。あることないことを言いふらし、みんながあの人を遠ざける。あの人は一人になった。いい気味だった。でもあの人は、挨拶をやめなかった。私たちが陰口を言っていることに気づいていないわけがなかったのに。信じられない。理解できない。

 そのうち、一人ずつ減っていく。陰口の輪が、小さくなっていく。あの人は一切反論しなかった。沈黙を貫いたまま、私たちに会えばきちんと挨拶をした。半分無視のような返事にも、ひるまなかった。

 おかしい。思っていたのと違う。誰からも相手にされず右往左往するあの人が見たかったはずなのに。どうして何も言ってこないの。嘘も混ざってるでしょ。何か言ってよ。いま私に挨拶した? 私に微笑みかけた? どういうこと。あなた、一体何を考えているの?

 陰口の矛盾に気づいた人間が、賢い順に私との付き合いをやめていった。あれは私の勘違いだったと訂正して回ったが、もう誰も聞く耳を持たなかった。多いときで十人ほどいた輪は、今は私と九美さんの二人だけだ。私は信用を失った。

『そこの首のバックルって、高さの調節ができるんですよ。知らんかったんですか?』

 たったそれだけだった。保育士なのに抱っこ紐の扱い方をわかっていないと笑われた気がした。知り合って間もないころのあの人の一言が、私のプライドを揺るがした。

 わかっている。そんなことで嫌われるあの人がかわいそうだ。私がその他大勢ならそう言うだろう。でも私は当事者だった。あの人の笑い声がよみがえる。どうしても許せなかった。

 あの人は今も一人でいることを選んでいるようだ。早々に陰口の輪から外れたママ友の一人が話しかけていたのを見かけたが、あの人はほとんど相手にしていなかった。私たちのことは既に見限ったようだった。

「お父さんは?」

 うるさいな。

「食べるのやめて待つ?」

 食べることが大好きな聖斗に、できるわけがない質問を浴びせる。間違いなく八つ当たりだった。もういい、食べよう。目の前の生姜焼きを口に詰め込む。あの人のことなんて考えたくもなかった。聖斗がキャベツのかけらを落とすのが見えた。湧き上がる怒りを抑え込む。叱ってはいけない。聖斗はもう、こぼすことはいけないことだと理解している。できるようになるまでにはタイムラグがある。

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