第19話 聖斗君のお母さん
五月 少しの時間だったが聖斗君と一緒に遊んだ。お母さんから嫌われているのは分かっていたが、子どもに罪はないと割り切って遊んだ。うんこブームが来ていたので思いきり付き合ってあげた。お母さんの顔が心底だるそうだったのでブームにうんざりしているのが分かった。仕方ない。こればっかりは終わるのを待つしかない。
聖斗がてのひらを合わせる。ぱちんと良い音が鳴った。
「手をあわせてください」
「いただきます」
聖斗の号令で夕飯が始まる。大きな口を開けてもりもり食べる様子を見ていると自然に笑顔になっていた。
「お父さんもうすぐ帰ってくる?」「うん」キャベツにかけるドレッシングに手を伸ばしたときに聖斗が何か言った。聞き取れない。
「なに? なんて?」
手にドレッシングを持ったまま聖斗を見つめる。
「お母さんって、なんで葵君のお母さんのこと嫌いなん?」
頭の中では、口の中に生姜焼きを突っ込んだまましゃべる聖斗を注意しろ、という指令が出ているが、それどころではない、という指令も出ていて対処できない。聖斗は気づいていた。いつから?
「なんでそう思うの」
秘技、質問返し。
「だって『あの人』って、葵君のお母さんのことやろ。いつも家の前でのり君のお母さんたちとしゃべってるやん」
何気ない顔を作りながらキャベツにドレッシングをかける。子育て世帯がほとんどを占める総戸数十二区画。私たちの隣の隣の、さらに隣に住んでいるご近所さんの思いだしたくもない顔を思い浮かべる。しらばっくれるべきか、肯定するべきか。頭をフル回転させるが、常日頃から子どもたちに嘘をつくなと言っている手前、自ら嘘をついてしまうことに抵抗があった。しかも私、保育士やもんな。
「別に嫌いじゃないけどなあ」
秘技、曖昧返し。
「でも好きじゃないやろ」
くそ。やかましいな。我が子の成長を疎ましく思いつつ考えを巡らせる。返事をしなくてはいけない。でないと、近いうちにもう一度同じ質問をされるだろう。私では埒が明かないと、ほかのママ友に同じ質問を投げかける可能性もあった。それだけは絶対に阻止する必要がある。
「好きでも嫌いでもないかなあ」
よし、返事完了。話題を変えねば。
「あ、ほら聖斗、ごはんこぼしてる」
食べこぼしに注意を向けさせながら、とっさにカレンダーに目をやる。
「来月遠足やな。年少さんになって初めてやな。楽しみやな」
「うん。年中さんは生駒山上遊園地やねんて。葵君いーなー。俺も行きたい」
「へーそうなんや。聖斗はどこやっけ」
「知らん。なんとか公園やって。この前な、葵君な、俺のハンカチを教室まで届けてくれてん」
「そうなんや。あんたまたハンカチ落としたん?」
「ほんでな、葵君な、休み時間に園庭でこけた子と保健室まで一緒に行ってあげてんで」
「ふーん。聖斗はこの前のけがは治ったん? 見せてみ」
「もう治った。さおりちゃんとゆなちゃんな、葵君のこと好きやねんて」
「あっそ。聖斗は誰が好きなん?」
「おらん。なあ葵君が優しいってことは、葵君のお母さんも優しいってことやんな?」
「さあわからん。聖斗も優しいよ」
一度も思ったことがないことを口にする。私の育て方では優しい子は育たないことはわかっている。もし育ったとしても、それは他人の目を気にする上辺だけの優しさだろう。
キャベツに箸をのばす。
「あんまりしゃべってたらご飯冷めるで。しかもご飯粒こぼしてるやん。拾って」
「あとで拾う」
「いっつも足とかお尻で踏んでるやん。服についたら取るの大変なんやで。今拾って」
「いやや。面倒くさい」
「ほんなら、こぼさんように食べてや。お皿の上で食べてって言ってるやん」
『こぼさないように食べて』が全く伝わらないので『前かがみで食べて』に変えてみたもののそれも無駄だったので今は『お皿の上で食べて』を試している最中だった。
「なあお母さんはなんで葵君のお母さん嫌いなん?」
脳内で、ぶちっと音が鳴った気がした。目の前の人間をぶん殴りたい衝動に駆られる。箸を折ってしまう前に机に叩きつけると、聖斗が口を閉じた。またご飯粒をこぼしている。
「黙ってや」
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