第18話 おしりをさがせ

「おしり見つからへん」

 帰宅後のリビングで、熱心に探しているなあと思いながら夕飯の準備をしていると絵本を広げた葵が台所へやってきた。十個のおしりをさがせのページだった。

「あと一個ない」

 どこ? 夕飯の準備の手を止めてのぞき込む。これ? それはもう見つけた、これは? を何度か繰り返し、背景とほとんど同じ色の小さいおしりを見つける。

「これ?」

「あ! あったー!」

 やれやれと夫を見るとスマホを眺めていた。どうしてそんなに興味のない対応ができるのか不思議だった。

「お母さん今日の晩ごはんなに?」

「鶏肉を砂糖と醤油で味付けして焼いたやつ」

 興味をなくして去っていく葵の後ろ姿を見て、やっぱり背が伸びたなと気づく。夫が嫌がるのを承知の上でお米を洗ってほしいと声をかけると意外にもすぐに台所へやってくる。

「鶏肉はにんにく風味がいいなあ」

「葵が臭いって言って食べんから却下」

 夫の要望を即座に退ける。こういう小さな不満が夫の無関心の原因なのかもしれないなと気づくが、味を分けるなど手間がかかりすぎて今は無理だ。ザッザッと米を計る夫の背中に声をかける。

「平日の昼に食べてきたらいいやん」

「平日のにんにくは無理。迷惑やし」

「ほんまやなあっはっは」

 夫の肩をたたきながら笑ってごまかす。

「お父さんなにやってんの」

 絵本に飽きた葵が今まさに夫の手で洗われようとしていた三合の米を見つける。

「お米は僕が洗う! 松井先生がお手伝いしましょうって言ってた!」

 年少から二年連続で松井先生が担任をしてくれることを知ったときは驚いた。「葵君の担任はいやです」と見捨てられても全く不思議ではないと思っていたので本当に嬉しかった。


 夫の隣で踏み台に立った葵が濁った水をお米と一緒に盛大に流す。ぱらぱらぱらとシンクに米の流れる軽やかな音を聞きながら、もうちょっとゆっくり、お米めっちゃ流れてしもた。どうする。と失敗した本人を目の前にして夫が騒ぐ。大丈夫いつものことやからとフォローのつもりがさらに失敗をあおる結果となり、大丈夫大丈夫ごめんと言いながら三人で何とか研ぎ終わった。炊飯器のスイッチを入れて満足気に台所を去っていく葵と夫をため息で見送る。さて鶏肉。

 お母さん今日買った服どこー? と言いながら今日買ったばかりのおしりたんていの本を踏む葵を注意し片づけさせる。夕飯の支度が進まないので夫にお願いして葵の相手を頼む。

 夫にお願いして?

 子どもは一人では作れないのに?

 どうして私が頼まなくてはいけないのだろう。

 首を振り、白色のトレーから出して広げた鶏肉をフライパンに乗せて火にかけた。こういうことを考えて良い結果に終わったことは一度もなかったと自分に言い聞かせる。

「お母さん見てー」

 今日買った服に袖を通している。ドクターイエローの黄色がまぶしかった。

「一回洗濯するからあとで脱いで」

「嫌」

「はいわかりました脱ぎません」

 葵は元気だ。夫も真面目に働いてくれている。私は家事をこなす。とりあえず今はこれで良いことにして換気扇のスイッチを入れる。あと五分もすれば台所中が香ばしい匂いに包まれるだろう。砂糖と醤油は葵に準備してもらおうか。冷蔵庫から醤油を出し、麦茶ポットのお茶が残り少ないことに気づいてやかんに水を入れてお湯を沸かす。

「お前がドクターイエローだな! じゃまだ! こうしてやる!」

「やめてこまちさん! ドクターイエローさんがいないと私たちは走れなくなっちゃうかもしれないよ」

「うるさい! はやぶさはあっちへ行って子どもの注目でも浴びておけ! お前の時代は終わりだ! N700Sに人気を明け渡しやがって! もうお前なんかいらない!」

「あーれー誰かたすけてー」

 いつのまにかプラレールを出してきた夫と葵の寸劇が始まっている。いつもこんな風に相手してくれたら助かるんだけどな。

「何よ! あなたいっつもスマホばっかりしてるくせに!」

 葵の言葉に時が止まる。新幹線もスマホを持つ時代になったのだ。頭が柔らかすぎてついていけない。

「私そんなこと言ってないからな」

 念のため口をはさむが、おそらく夫も分かっているだろう。

「誰が言ってたん」

「〇〇ちゃん」

「知ってる?」

 振り返った夫に聞かれたが、首を振ることしかできない。家庭の会話は園に筒抜けだとは聞いていたが、まさかよそ様の家庭の喧嘩まで聞こえてくるとは思ってもみなかった。

「わたしがどれだけ大変か、あなたは全然わかってない!」

「私そんなこと言ってないからな」

 うつむく夫の口からわかってる、という意味合いの不明瞭な返事が聞こえたあと、あのとき録音するべきだったと後悔することになる言葉を口にした。

「俺、もっと家のことやるわ」

「あそう。じゃあお風呂のボディーソープ詰め替えて」

「今?」

「今」

 はいはいと言いながら立ち上がる夫を眺める。

「お父さんどこ行くの。僕もやる!」

「えー」

 明らかに気乗りしない様子の夫と、背負えるだけ背負ったたくさんのやる気を携えた葵の後ろ姿を眺める。

「買い置きは洗面所の棚に入ってるから」

 不機嫌な返事が返ってくるのが腹立たしかった。相手の得意分野で動くときは相手に従うのが当たり前だと仕事では分かっているくせに、どうしてその理屈を家庭に持ち込もうとしないのか。やるべきことなど探せばいくらでも転がっているのが、家の中を見てわからないのだろうか。

 鶏肉の焼き加減を確認し、うちの夫は立ち上がるだけましだと言い聞かせる。どの家族も似たようなやりとりをしているんだろうなと思いながら、フライパンにたまった余分な油をキッチンペーパーで拭き取る。鶏肉をひっくり返すと待ってましたと言わんばかりに香ばしい匂いが漂った。

 洗面所から夫と葵の悲鳴が聞こえる。詰め替え作業を侮ることなかれ。外したポンプの置き場所、ぐらつく注ぎ口。意外と繊細な作業なのだ。

 ため息をついて火を消す。雑巾はあとどれくらい残っていたかしら。詰め替え作業が終わった後にありがとうと言うべきか迷いながら、洗面所に向かって足を動かした。

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