第17話 買い物帰り
駐車場で車に乗り、後部座席のチャイルドシートに座った葵が自分でシートベルトを締め、すぐに絵本を読み始めた。夫がエンジンをかける。
「酔うで。帰ってからにしとき」
葵の隣に座りシートベルトを締めながら、念のため声をかける。
「なあお母さん、れいせいってなに?」
冷製? パスタ食べたいな。とっさに湧き出る食欲を黙殺し絵本をのぞき込むと、愛らしいおしり顔さんの紹介ページだった。
「冷静っていうのは、トラブルがあっても慌てずに判断できることかな」
「はんだんってなに」
物事を、と言いかけてやめる。
「色々決めたりすること。あれしよかな、やっぱりこれにしよう、みたいな」
「ふーん。おかあさんアイス食べたい」
「家に帰ってからな」
「いやや今食べたい。前も車で食べたやん」
頭の中に「?」が浮かぶ。高級車ではないものの、今の車を大切にしている夫は車内で飲食することを許さなかったし、車酔いしやすい私も車内での飲食は敬遠していたはずだった。
「食べたっけ?」
夫に確認するとやはり記憶にないようだ。葵の顔から察するに嘘を言っているわけではないようだが、心当たりはなかった。
「どこに行ったときか覚えてる?」
「公園」
「公園?」
あ! という夫の声をきっかけに思いだした。夫の友人の家に遊びに行く途中のサービスエリアでトイレ休憩をし、車に戻ると夫が車内でご当地アイスを食べていたことがあった。夫は私たちが戻る前に大急ぎで食べきるつもりだったらしいが間に合わず、当然の結果として葵が騒いだ。私もついでに騒いだ。「お父さんだけずるい」「わかった同じの買ってあげるから外のベンチで食べよう」「いややお父さんみたいに車で食べる」「味は同じやから外で」「いややお父さんと同じがいい」「おぬしもわるよのう」ということがあった。
どうして忘れていたのだろう。あれは入園式の直前の春休みで、イヤイヤ期がちょうど終わったばかりだった。途中で落としてしまったらどうしようという思いは杞憂に終わり、使いにくい木の棒でできたスプーンでカップアイスを上手に食べ切り、無事に出発できたのだ。そのあと友人の子どもと公園で遊んだことも相まって、葵の中では「楽しい思い出」として公園と同じ引き出しに入っていたのかもしれない。
よく覚えているなあ。大げさに頭をなでて褒め、何食わぬ顔で岐路に着こうとしたが無駄だった。アイスアイスアイスお母さんアイス食べたい。
わかったからコンビニ寄るから絵本閉じて。酔うで。もう一度言ってみると今回は珍しく絵本を閉じてくれた。久しぶりに言葉が通じたことが嬉しい。
「帰ったらお母さんが読んで」
「わかった」
「なあ今ひらがな読んだってこと?」
ちょっと待っていつのまに? ハンドルを握った夫は動揺を隠せない様子だったが、右に曲がるためのウインカーは忘れなかった。
「もう読めるやんなー」
葵に向かって首を傾ける。
「なー」
「時々間違えるけど」
「間違えへん!」
「はい間違えません」
「でも、めかぬかめかぬかはいつも間違えるねん」
「なんて?」
葵の放つ呪文のような言葉に戸惑う夫を見て、さすがに説明が必要だと口をはさむ。ピタがスイッチでゴラするあれや。大人が見ても楽しいあれ。
「ひらがな一文字がちょっとずつ出来上がっていく場面があって、それが「め」か「ぬ」の二択やねん。そのときに「め」か「ぬ」か「め」か「ぬ」かって歌が流れるねん」
理解したものの明らかについていけない夫は置いておいて、葵と一緒にめかぬかの歌を歌う。最後は葵が「ぬ」で締めくくった。
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