第16話 買い物

 四月 愛らしいおしり顔のたんていが活躍する新刊と、様々な大ピンチが描かれた図鑑の続編を買う。最近の絵本は大人が読んでも面白いものが増えて嬉しい。葵はおしり顔のたんていさんが大好きだ。このまま読書好きに育ってくれたらいいなと思う。また今度、母を誘って本屋へ行こう。


 葵の夏服を買うため、休日に夫の運転でショッピングモールに来ていた。四月に入ってから暑い日が増えたので、しまっておいた夏服を出してみると半分以上がサイズアウトしていた。去年はこんなに小さな服を着ていたのかと驚く。四歳になって二か月が経ち、年中になったばかりの葵の背中が大きく見えると思っていたが気のせいではなかったようだ。

 ドクターイエローやこまちの柄を中心に葵が自分で選んだ服を五着購入し、エスカレーターで駐車場のある階へ向かう。

「おしりさん!」

 エスカレーターを降りるとすぐに本屋があった。葵が一直線に向かっていく。

「これ新しいやつやで」

 知ってます。ポスターを眺めて飛び跳ねる葵にやめなさいと言うが聞く耳を持ってくれない。葵が騒いだためか、最近やっと靴を履いて歩けるようになりました感を漂わせた女の子がよちよち近づいてきてしまった。父親とみられる男性がスマホ片手に慌てた様子で女の子の腕をつかもうとしている。なんでこんなところにポスターを貼るのかと毒づきたくなった。

「おしりさんは家にいっぱいあるから買わんで」

 そう言ったにもかかわらず、入口のすぐ横で平積みされた愛らしいおしり顔を手に取ってしまう。こみ上げるわくわくする気持ちを抑えきれない。本屋の壁に沿うように小さな机と椅子が並べられ、読書スペースもあるこの本屋は葵と私のお気に入りだった。かといって欲しがる本をすべて買ってあげることはできない。何事にも熱中しやすい代わりに驚くほどの速さで急激に飽きてしまう葵には驚かされるばかりだ。

「ノラネコのぐんだんやったら買ったるわ」

「いやや。お母さんが好きやからって家に四冊もあるやん。いつも同じパターンやしあきた」

「同じ間違いを何千回もやってるあなたにだけはまじで言われたくない」

 黄色い八匹の猫が悪気なく、ときに悪いと知りながら毎回トラブルを起こし、巻き込まれた犬にしっかり叱られるシーンがたまらなく大好きだった。まるで葵ではないか。

「いやや。おしりさんがいい」

「ほんなら大ピンチのずかんつーでもいいよ」

 おしりさんをいったん戻し、五歩でたどり着ける特設コーナーへ行く。

 購入済みの初代のずかんを手に取り、牛乳を盛大にこぼす男の子の表紙を眺める。ページをめくれば様々な大ピンチが載っていた。半年くらい前に公園で「おかあさん靴の裏が気持ち悪い」と言われたので確認すると、葵が動物のうんこを踏んでいて大騒ぎになったことがあった。その直後にこの絵本と出会い踏んだうんこに辟易する描写を見て、これは葵のための本だと購入を即決したのだった。

 隣に平積みされた二代目を手に取る。倒れそうないちごのショートケーキを前に慌てる愛らしい男の子が表紙を飾っていた。

「つーってなに」

「続きってこと」

 ぱらぱらめくって読んでみると、ピンチの内容がやや細かくなったもののイラストのアングルに個性を感じ、初代と遜色ない内容で十分に読みごたえがありそうだった。

「これ続編? すごいな」

 夫が本を持ち上げたときに、ショートケーキのいちごが机から転がり落ちようとする裏表紙が目に入る。入口でスマホを確認していた夫は私たちが本屋に時間をかけると悟ったのか、俺も混ぜてと言わんばかりにやや強引に会話に入ってくる。

「おしりさんの絵本って家に何冊あったっけ」

「四冊くらい?」

 心の中でため息をつく。夫に確認するだけ無駄だった。

 三歳向けが二冊、六歳向けが四冊はあったはずだ。どうしよう。絵本に見入る後ろ姿を眺めながら、葵は私に似て好きを極めるタイプだと初めて気づく。だとしたら新刊が出れば欲しくなる気持ちもわかる。だがもっと色々な本を読んでほしいと思う親心も捨てがたい。あと、おしりさんは既刊本がたくさんあり、実はまだ買っていない本の方が多いので「おしりさんコーナー」には絶対に葵を近づけてはいけない。次に会ったとき母に相談してみようと心のメモに書きとめる。

 見知らぬ子どもが私と夫の間から大ピンチのずかんに手を伸ばしたので場所を譲る。

「どうする。おしりさんほしいんやって。六冊は確実に家にあるけど」

 記憶を頼りに指を折って確認する。全部で七冊だった気がしてくる。

「家で読んでる?」

「まあ読んでるかなあ」

「じゃあ買えば」

 本当は絵本なんて興味ないくせに、外では人目を気にして良いパパですね。

「大ピンチのずかんつーも買っていい?」

 何を買うにも夫の承諾を得ることにはもう慣れた。ここでダメだと言われたら離婚も視野に入れようと思ったが、夫は首肯してくれた。夫は答えが比較的はっきりしている数学が好きで、何ごとにも効率を重んじる典型的な理系脳だった。私が高校入試で小論文を書いて合格した話をしたとき、小論文って採点する側の力量によって結果が左右されるから嫌いだと訳知り顔で言っていた。じゃあ採点者全員を黙らせる精度で書いてみろと思ったが言わなかった。夫は全てにおいて自分が上でないと気が済まず、言い返すことで気分を害されても良いことは一つもないので黙っておいた。育児でいっぱいいっぱいになって内職に切り替えてからはどうしても遠慮が出てしまって屈辱だったが、夫が真面目に働いてくれているのは分かっていたので割り切ることにした。

「お母さん見てー」

 葵がおならのシーンを開いて見せてくれる。

「失礼こかせていただきます」

 可能な限り低い声でまねると喜んでくれた。

「買うからレジ行こうか」

「やったー」

 ぴょんぴょん飛び跳ねる葵と手をつないでレジに行こうとしたら、夫が代わりに行くと言ってくれた。珍しいなと思いレジを確認すると若い女性の店員さんだった。鼻から息を出し、はいどうぞいってらっしゃいと送り出す。

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