第10話 自分の意思(3)
スマホが震える。出てみると母からで、あと十五分くらいでこちらへ到着するとのことだった。今日は久しぶりに母の車でショッピングモールに行く予定だった。父の誕生日が近いのでシャツを選んでほしいと言われていた。準備をしなくてはと、椅子から立ち上がる。
母の運転する車に乗るのは子どものころから好きだった。安全運転だし、いつも楽しいところへ連れて行ってくれる予感に満ちていた。
ショッピングモールに着き、母と二人で専門店街をぶらぶらしながら歩く。自分の意志でこんなにゆっくりと過ごせるなんて久しぶりだった。父のシャツが思ったより早く決まったので、ずいぶん前から欲しいと思っていたスニーカーを品定めする。
キラキラで全く実用的でない華奢なヒールの靴は見て見ぬふりをする。
あんな靴では葵の突然の猛ダッシュについていくのは不可能だ。でも昔はキラキラした靴も大好きだった。パンプスに合わせる靴下の色だけで十分以上も悩んでいたのは何年前だろう。
今はスニーカー一択。大丈夫、おしゃれなスニーカーもたくさんある。あとは値段との相談だ。でも自分にお金をかけるくらいなら葵に何か買ってあげたい気持ちも大きかった。母と相談しながら店内を行き来する。
「こんなにゆっくりできるの久しぶりやな。最近の葵君は風邪引いてないん?」
「うん。今日は元気に行った」
自分が買うわけでもない靴を一緒に選ぶ母の横顔を眺める。
『孫はまだなん?』
『そろそろ考えてもいいんじゃない?』
目を閉じる。まるで示し合わせたようなタイミングで、同じ時期に別々の場所で話を振ってきた母と義母。きっかけは二人の催促だったかもしれないが、子どもをつくると決めたのは夫婦で話し合ったからだ。生まれたのが驚くほど手のかかる人間だったとしても二人を責めるのはお門違いだし、ある程度の貯えがあり赤子が育つ子宮を持っているなら子どもを生むのは結婚した人間の義務だと思っていた。今でもその考えに変わりはない。
でも、子どもは生んで終わりではない。その意味を生んで初めて知ることになった。
「これにする。履いてみるわ」
サイズも問題なく値段も許容範囲だったので履いて帰りたい旨を店員さんに伝える。今まで履いていた靴が横に並んだとき、ずいぶんくたびれて見えて驚いた。持ち帰らず処分をお願いして店を出る。
「今何時?」
「十一時六分」
「ちょっと早いけどお昼にしてもいい?」
私が言うと母も同じことを考えていたらしく、すぐに首肯してくれた。
「万が一お迎えの連絡が入ったら大変やもんな」
「ほんまそれ。スマホが鳴るたびにドキドキしてる」
「あんたも妹も、小学校時代も含めて風邪でお迎えなんて一回もなかったけどなあ。やっぱり女の子は強いんかなあ」
「信じられへん」
「風邪は年に一回か二回引いてたけど、だいたい朝起きたらすでに調子悪かったから、そのまま休む感じやったけどなあ。しかも一日で治る」
「信じられへん」
はははと笑いながら飲食店のショーウインドウが並ぶ通りを歩く。
「何食べる?」
何気なく聞こえてきた母の言葉が、頭に入ってこない。返事をしようとして思考が止まる。母は今、何と言ったのだろう。何食べる?
「えーと……」
目の前のパスタの並ぶ皿に意識を向け、落ち着けと言い聞かせる。
何食べる? って、どういう意味だっけ。
頭の中がはてなでいっぱいになっていく。
何食べる何食べる何食べる何食べる何食べる……。ここは日本で、私の母国語は日本語。落ち着け大丈夫大丈夫。理解できるはずだ。
顔を上げ、たくさんの飲食店が並ぶフロアを眺める。そうだ今から食事をするのだ。だから、自分が食べたいものをこの場から選ぶのだ。自分の意志で。
私がいつも食べるのは葵の食べ残しがほとんどで、家族で外食するときはいつも自分が食べたいものではなく葵も食べられるものを選んでいた。
私の分を欲しがったときに辛いからと断れば泣いて暴れたし、辛くてもいいと言うので嫌々あげたら辛いと言って泣く。そんな葵に手をあげてしまわないように、自分が我慢して平和が訪れるのならと、葵が食べられるものを選ぶのが普通になっていた。自分の食べたいものをいつも通り選ぶ夫はきっと、私も自分の食べたいものを選んでいると思っているだろう。
今の私には選択する自由がある。それに気づいたとき、私のそばに葵はいないんだという事実がはっきりと自分に押し寄せてきた。
今まで感じたことのない解放感に包まれ、目に映るものすべてが輝いて見えた。
私は今一人だった。そばに葵はいなかった。そのことが心底嬉しかった。
「何食べようかな」
自分で口にして、理解できたことに安堵する。
「なんか、カップラーメン食べたいな」
隣で母が大笑いしている。食べるか? と明らかに冗談で聞かれたので断る。
「実はさ、葵を妊娠してから今日までずっとカップラーメン食べてないねん。お酒も一滴も飲んでない」
「まだ夜泣きするん?」
「だいぶ減ったけどまだする」
ずいぶんと色々なことを置いてきてしまったことに気づく。これからは少しずつ取り戻せるのだろうか。
「毎日お母さんやってるもんなあ」
「うん」
「とりあえずパスタでええか? パン食べ放題やって」
「御意。パン大好き」
母に続いて店内に入る。自分の意志で注文したパスタが届き舌鼓を打った。食事ってこんなに美味しかったんだ。こんなに美味しい食事は久しぶりで嬉しかった。
「このあと喫茶店入ろうか」
母の提案に飛びついた。今の葵と喫茶店に行くなんて絶対に無理だ。この機会を逃したら次回はいつになるか全く予想できなかった。
そっとスマホを確認したが、こども園からの連絡はなかった。隣に葵がいないことが何だか不思議で奇妙で落ち着かない。もしかしたら私は今日のことを一生忘れないかもしれないな。そんな予感が胸を通り過ぎていく。
焼きたてのパンを持った店員がベルを鳴らす。パンをおかわりするために母と二人で席を立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます