第9話 自分の意思(2)
無事に園まで送り届けて帰宅すると、誰もいない家で自由でいられることに心が躍るのを隠しきれなかった。今日はパートが休みの日だった。工場でのパートは葵の入園と同時に始めたのでちょうど半年が経ったことになる。子育てが一段落した年代の人が多いので葵の体調不良に起因する早退や欠勤にも寛容なのがとてもありがたかった。
『葵君、毎日規則正しい生活をしているのに何でこんなに熱が出るんでしょうね』
昨日の登園時、葵君元気になってよかった! と笑いかけたあとの松井先生の心配そうな顔を思い返す。数えてみると今回が四度目の発熱だった。
三歳の子どもが半年の間で熱を出す回数としては確かに多いのかもしれない。園通いの洗礼だと思っていたが、松井先生に言われると少し心配になる。
パートを始めてからの夕方は目が回るほど忙しくなったのは確かだ。抱っこを断る回数は間違いなく増えている。叱る回数も増えた気がする。
疲れた気がしてリビングの椅子に座る。熱は出なかったとはいえ、葵の風邪を毎回もらってしまうのがつらかった。
『おかあさんだっこ』
寒気がする。葵ではない。私の声だった。
私の母も忙しい人だった。数年前に閉店するまで父と一緒に町のお寿司屋さんを営んでいて、子どもの頃は一階が店舗、二階が住居のよくある造りの家で生活していた。何を話しているのかはわからなかったが、父と母の声はいつも聞こえる距離にあり、宿題のとき以外の私の居場所は二階にあった。階段を上ってくる足音で父と母どちらが顔を出すのかが見なくても分かった。
私は抱っこが好きな子どもだった。階段を降りれば母がいることは知っている。たまに配達でいなかったが、だいたいいる。お客さんがいないのを階段の下段からこっそり確認し、カウンターテーブルに座ってノートを見ている母のそばへ走る。
『おかあさんだっこ』
『ちょっと待ってね。今勘定してるから』
断られるのはわかっていた。レジ横の椅子に座って足をぶらぶらさせていると、扉を開けてお客さんが入ってくる。
『いらっしゃい!』
すぐに階段へ戻る。大人は怖かった。
二階で母を待つ。騒いではいけない。折り紙をして、テレビを観る。ぬりえをしていると階段を上がってくる音がするが、父の足音だった。きっと金庫か、いつものかばんからお金を何枚か取り出してすぐに下へ降りるのだ。
父が私を見て言った。『そんなんせんと勉強しなさい』
うつむいて小さな声で返事をする。自分がそんなに賢くないことは分かっている。さんすうも、がんばって先生の話を聞いているのに出てくる問題は応用ばかりで、基本しか教えてもらっていないのに応用なんかできるわけない。解き方も教科書に載っていない。全然わからない。先生の話だけじゃわからない。勉強なんか嫌い。
お母さん早く来ないかな。お母さんまだかな。
我慢は当たり前だった。我慢が普通だった。
『え! お寿司屋さん? いーなー』
『毎日お寿司食べてるん?』
自分はほかの子より恵まれていると本気で思っていた。だから抱っこをしてもらえなくても我慢するのは当たり前だと思っていた。わがままを言ってはいけない。お母さんは忙しいのだから。
専業主婦という言葉を初めて知った日、これが私の天職だと思ってしまった。
お母さん早く来ないかな。お母さんまだかな。
私に子どもが生まれたら、たくさん抱っこしてあげたい。もういらないと言われるまで。
鶴、ピアノ、椅子、ふうせん、しゅりけん、やっこさん、だましぶね。嫌いな色から使う折り紙。ぬりえのノートがもうすぐ塗り終わることに気づいた。母に言えばすぐに買ってもらえるだろう。先が丸くなった色鉛筆を削って削りかすをゴミ箱へ捨てる。
一階から、お客さんと楽しそうに笑う母の声が聞こえる。母が私のために階段を上ってくることはない。そんなことは初めからわかっていたはずだった。
寂しいね。うん。我慢しようね。うん。心の中で自分に話しかけ、自分で答える作業は、いつからやるようになったのだろう。
いい子で母を待つ自分の背中をもう一人の自分が冷めた目で眺めていることに気づく。ときどき起こるこの感覚はいつも私を不安にさせた。ぱっと振り返るがもう一人の自分はいない。心の中で念じる。怖いから眠っていてね。そう言うともう一人の自分はすっといなくなって、心の一部に溶け込むのがわかる。自分が強くなった気がして安堵し、ぬりえを再開する。
もし私がお母さんになったら、専業主婦になってずっと赤ちゃんのお世話をする。そのために努力しよう。できることは全部やろう。
いつの間にか心に根付いたさみしさは、そのまま私の核になった。
抱っこをしてほしかった。ずっと。でも言ってはいけないと思っていた。
頭を軽く振って意識をリビングに戻す。葵は今、寂しいのではないか?
工場が忙しくて水分補給がうまくいかず、熱中症になって帰ってきたときは葵にも夫にもずいぶんと心配をかけた。私の体調が悪いからといって夫がすぐに会社から帰って来られるわけもなく、鼓動に合わせてガンガンと痛む頭と、絶え間ない吐き気をこらえながら台所の塩を溶かした水を一気飲みし、炎天下のなか自転車で葵を園まで迎えに行き、二分でも時間ができれば横になった。
経口補水液を買った夫が救世主のように帰ってきたのは、葵に晩ごはんを食べさせ風呂に入れてからだった。その後の家事や寝かしつけは夫に一任してすぐに布団に入った。熱中症を甘く見ていた。毎年たくさんの人が亡くなる理由が布団の中でやっと理解できた。
厄介なのは、夫の収入だけで生活できなくもない、ということだった。一つであれば習い事をする余裕もあるだろう。葵にお金がかかるのはもう少し先で、抱っこを拒否してまで働く必要はないのだ。ましてや熱中症になってまで働くことを、夫はきっと望んでいないだろう。
ボコボコとしか表現できなかった葵の元気な胎動に驚いたときに、この子が無事に生まれたらたくさん抱っこすると決めた。
私と同じ気持ちにはさせないと誓った。
『抱っこもほっぺにチューも、今のうちにたくさんしとき』
工場で働く中年の男性社員の苦い顔がセットで浮かんでくる。今はまだ実感はないが、子どもというものはすぐに大きくなる生き物らしい。葵が大きくなってから後悔しても遅いのだ。
私がパートを辞めたいと言えば、夫はきっと引き留めないだろう。理系脳で融通が利かず腹が立つときもあるが、付き合っているときから私の考えを尊重してくれる人だった。だから結婚したのだ。夫からすれば、私の意見に反対して望まない結果になった場合に謝罪したくないという保身の意味も十分にあると思う。何であれ私を尊重してくれるなら、理由などどうでもよかった。
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