第8話 自分の意思

 十月 パートを始めて半年が経った。パートから帰った日の夕方はびっくりするほど忙しく、葵の抱っこを断ることが増えた。休みの日に母とショッピングモールへ行く。パスタを食べ、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。ものすごくおいしかった。


 葵がこども園に行くことを嫌がるようになって一か月が経った。

「お母さんと別れたあとは楽しく遊んでますよ」松井先生にそう言われて安心したものの、園での一日を終えて家に帰ったあとはいつもより抱っこをせがむ回数が増えた気がしていた。

 いつまで続くのだろう。パートがあった日は苛立ちを抑えるのに毎回苦労した。今日はすんなりこども園に行ってくれたらいいなと思いながら、朝食用の食パンを準備する。

「お母さん。着替えるの手伝って」

「はい。おいで」

 パジャマ姿の葵が満面の笑みを浮かべ、制服を抱きしめてこちらへ来た。


「一人でお着がえできるように保護者の方のご協力をお願いします」

 昨日もらったプリントの文言を思いだしながら、松井先生に申し訳ない気持ちになったので思いきって提案する。


「明日は自分で着がえてみよか」

「嫌」

 ですよね。バンザイをする葵のパジャマを脱がせながら頭を悩ませる。残念ながら私が手伝った方が早く終わるし、朝はどうしてこんなに次々やるべきことが発生するのか疑問を持つ暇もないほど忙しい。

 自分で着替えるのがいやだからこども園に行きたくないなんて言われた日には、喜んでお手伝いさせていただきます。

 葵の世話を焼きすぎることに不満を持っている夫の気持ちには気づいていたが、夫自身が育児にかかわっていないことを自覚しているからか、今のところ何かを言われる気配はなかった。

 

 両足にズボンを通し、最後は自分で上まであげたので一人で着替えができたことにする。

「はい、よくできました」

「熱も測る!」

 キッチンカウンターに置いてある体温計を自分で取りに行き、最近上手に使えるようになったそれを床に落とす。壊れたら買い替えがないのでひやひやしたが、電源が入ってほっとする。私の膝の上で音が鳴るのを大人しく待つ、小さな頭をなでる。


 日曜の昼に熱を出したので翌日かかりつけの小児科へ行った。医師はお世辞にも愛想が良いとは言えなかったが、診察室で好き放題する葵を冷静に観察するようなそぶりがあり、診察の回数を重ねるたびにどんどん葵に合う薬を出してもらえるようになっている気がしていた。

 良い先生なのにいつも待合室が空いているのが不思議だった。それから三日後の昨日から登園を再開し、元気が一番だなと当たり前の日常に感謝する。

「熱ない!」

「よし、行こう!」

 玄関へ行って黄色の通園帽を渡すと、悲しそうに受け取った。

「帽子いやや」

 入園のしおりには「帽子は正しくかぶって通園しましょう」と書かれてあった。一歳の頃に買った子ども用の自転車ヘルメットは、何度かぶらせても地面に叩き落とすので諦めた。

「帽子はなんで被るか知ってる?」

「頭を守るため」

「せやな。でも嫌なん?」

「嫌」

 登園時間が迫っている。無理やり被らせるのか、「被らなくていいから手で持って」と頼む手もある。ただ、かなりの確率で途中で落とすので、拾うためには自転車を止め、帽子を拾う私を身を乗り出して確認する葵を注意しながら素早く拾わなくてはいけない。

 以前、拾うために一度葵を自転車から降ろしたとき「このまま歩く!」と言って走り出してしまったためどうすればいいのか判断できず、焦りに焦って大声で呼び止めてしまった。あんな経験はもうしたくない。


「帽子被らないとこども園行かれへんで」

 そんなことを言おうものなら未来永劫被らないのはわかっていたので言えない。先月までは被ってくれたのに。どうしてだろう。困ったな。

 ふと横の靴箱に意識を向ける。靴箱の上段は冬の登園で使う毛布や、買ったものの興味を示さなかった子ども用のフリスビー(けっこう高かった)やヘルメット(めっちゃ高かった)など、外で使うあれこれがしまってあった。その中に、つば付きの自転車用ヘルメットがあったことを思いだした。

 夫が一時期自転車通勤をしていたときに買ったもので、今は車通勤に切り替えたので使っていない。ちょっと待ってねと声をかけ、靴箱をごそごそすると見つかった。


「見て!」

 黒いヘルメットを被る。自転車通勤を続けるつもりのなかった夫は、数年後は私が使うだろうと予測し、やや小さめを購入してくれていた。首のバックルを自分用に調整すれば問題なく使えそうだった。葵の顔がパッと明るくなる。

「お母さんも使うの?」

「使うよ。一緒やね」

「お母さんは黒! 葵は黄色!」

 自ら帽子を被ってくれた葵を見てほっとする。

「じゃあ行こうか」

「うん!」


 晩ごはんのときにほうれん草を食べるタイミングがたまたま重なったときも、今と同じ嬉しそうな顔をしていた。わかっていたつもりだったが、何をするにも私と同じが嬉しいのだなと改めて気づく。


 フロントシートに葵を乗せ、スタンドに足をかける。

「お母さん」

 足を離して葵を見ると、嬉しそうに帽子に手を触れている。自然と顔がほころぶ。

「一緒やな。じゃあ行くで」

「一緒! お母さん大好き」

「ありがとう」

 軽いハグをする。お母さんも大好きと言ってあげられない申し訳なさには気づかないふりをして、スタンドを下ろして自転車にまたがる。せめて葵の笑顔を守れるように、今日も安全運転で自転車を走らせようとハンドルを強く握る。


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