第7話 三歳半健診(2)
身長を測っては待ち、体重を測っては待つ。事前に自宅で練習した視力検査も、本当に見えているのかよくわからないまま「はい大丈夫です」とあっさり終わってしまった。一つの検査が終わるごとに隙あらば半裸で脱走しようとする葵を力いっぱい引き留める。
最後の検査が無事に終わると絵本の並んだ机に通された。五種類の中から好きな絵本を一冊選んでいいそうだ。飛び上がって喜ぶ手が私のあごに当たる。苛立ちを抑えて一緒に選んだ。
ブックスタート事業の一環で、選んだ絵本を読み聞かせてもらい、そのまま持って帰ってくださいと言われて驚く。よかったねと言っていると保健師さんに声をかけられた。
「発達相談の予約をしている方はこちらでお待ちください」
待っている間にトイレに行こうと葵に声をかける。おむつが取れてから子育てがぐんと楽になったなと思う。
「いっぱい出たー」
嬉しそうに手を洗う葵にタオルを渡し頭をなでる。いよいよだ。今日の発達相談で葵に障害があるかどうか見極めてもらおう。
名前を呼ばれて部屋に入る。入口を除く三つの壁に沿うように長い机と椅子が置かれ、すでに二組の親子が相談を受けていた。部屋の真ん中にはシートが敷かれて絵本やおもちゃが置かれており、子どもが遊べるように配慮されている。空いている一つの区画に目を向けると、保健師とみられる女性が立ち上がるところだった。
「こんにちは。お座りできるかな?」
前半は私に、後半は葵に向けた言葉だった。名札には保健師 すみだ きょうこ と書かれてあった。
葵は椅子に座るのを嫌がった。私が座ると膝の上によじ登り、恥ずかしそうに胸に顔をうずめてしまった。
「ほら葵、前向いて」
「嫌」
机に置いてあったミニカーを見せてみるも、いやいやと首を振ってしまう。
「じゃあ先にママとお話しさせてね」
返事をしない葵に構わず、すみださんはにこやかに話を進める。自宅で記入しておいた発達相談用の問診票と母子手帳を渡しながら、じっとできないこと、何でも触ってしまうこと、興味のあることに最短距離で突き進むこと、危ないと言っても分かってもらえないこと、とにかく言葉が通じなくて辛いことを切々と話した。
ゆっくり頷きながら私の話を一度も遮ることなく聞いてくれ、程よい合いの手も相まって、話し始めると止まらなくなった。
年長さんが作った作品を引っ張って壊す、駐車場やスーパーで走りまわる、何度叱っても椅子の上に立つのをやめず転んで泣き、翌日には再び椅子に立って転んで泣いている。この子は発達障害ですよね?
私が一息ついたのを察知したように、葵がすみださんの方を向いた。すみださんにミニカーをどうぞされ、受け取り机に向き直ってミニカーで遊びはじめる姿を見てほっとする。
椅子には座ってくれないが、私の膝の上で机に顔をくっつけ、タイヤを凝視しながらゆっくりミニカーを動かしている。
「トイレトレーニングはどうですか?」
「時々失敗しますが昼のおむつは取れました。夜はまだです」
うんうんと頷きながら問診票に目を落としている。
「葵君、この積み木のせてくれる?」
机の端に置かれていた発達検査用であろう積み木には、座る前から気づいていた。どのように使うのかとそわそわしていた。
「嫌」
縦と横が二センチくらいの立方体でできた赤い積み木が十個ほど目の前に並べられ、当たり前のようにすみださんが重ね始める。これをすべて倒さずに上へ重ねていくのか。三歳半では難しいように感じた。
「お母さんもやろうかな」
ミニカーをつかんだままの葵の視線は積み木に注がれているが、手はまだ伸びない。ここで声をかけるのは良くない気がして、気にしないふりをして積み続けていると、我慢ができないという様子で手を伸ばしてきた。
大げさに褒めて反応するのはだめだと自制し、葵にそっと積み木をゆずる。次々と雑に乗せていく葵を見て「もうちょっと丁寧に」と言いたくなるがこらえる。八個目を乗せようとして崩れてしまった。
「がんばったね!」
頭をなでてほめる。心にもないことを口にする自分に対する抵抗感はとうの昔になくなっていた。
積み木の結果を見たすみださんは問診票と母子手帳を持って一旦退席した。
「終わり? もう帰る?」
「まだ。あともうちょっと」
突然見知らぬ場所に連れてこられ、服を脱がされ測定され、やっと終わったと思ったら積み木を積め。私が疲れているということは葵も疲れているはずだ。
靴を脱いで真ん中のシートに移動し、おもちゃで遊びながらすみださんが戻るのを待つ。
「お待たせしました。お母さんだけで大丈夫ですよ」
シートに葵を残し、すみださんと二人で向き合う。
「葵君ですが、今のところ発達に問題はないという結果になりました」
え?
「異常なしですか?」
よかったですねと微笑んでいるすみださんに何か言わなくてはいけない。ちょっと待ってください。えっとですね。
「トイレトレーニングも順調ですし」
トイレトレーニングも順調ですし?
「あの、積み木は七つしか積めませんでしたけど」
「はい。本当は八個以上積んでほしかったのですが、お母さんとのやりとりを見させていただいて、問題ないと判断しました」
え?
発達に異常なし?
ちょっと待ってください。こんなに言葉が通じないのに?
「あの、駐車場で走り回ったり、スーパーでも全然言うことを聞いてくれなくて」
気づけば、先ほどと同じ話を繰り返していた。うんうんと優しく頷きながらすみださんが口を開く。
「こればっかりはね、根気強く言い続けるしかないんですよ。葵君の中でピースがカチッとはまるのを待つしかないんです」
ピースがはまるのを、待つしかない。
「あの、グレーゾーンっていうのは?」
発達障害まではいかなくとも、その手前の段階にあるのではと思いたかった。
「グレーゾーンでもありません」
微笑んで首を振るすみださんが続けて言った。
「もし心配なら、専門の資格を持った支援員をご紹介することもできます」
そう言われて初めて、すみださんの保健師という名札の意味を理解した。そうか、今日はあくまで相談なのだ。確定した診断がもらえるものだと勘違いしていた。
確定させるためにはきっと、しかるべき場所で様々な検査が必要なのだろう。もし仮に支援員を紹介してもらうとしても、二か月先まで予約が埋まっているらしかった。
肩が重くなり、遅れてゆっくりと疲労が全身を包んでいく。
疲れた。
今日は頑張った。
もう帰ろう。
「葵は、健常児なんでしょうか」
「今のところ、発達に問題はないという結果になりました」
すみださんの仕事はここまでなのだ。私が気づいていることにも気づいているだろう。気づかないふりをした二人が同時に席を立つ。
「帰ろう」
シートで大人しく遊んでいた葵に声をかける。てっきり嫌がるかと思ったが、すっと立ち上がって自分で靴を履いた。
「トイレを借りて帰ってもいいですか」
「どうぞ、あちらです。何かあったらいつでもお電話してくださいね」
葵と一緒にすみださんに手を振ってトイレに向かう。
葵のトイレが無事に済み、外で待ってもらうと高確率で行方知れずになるので、狭い個室に一緒に入ってもらい、自分も用を足す。
「おかあさんもおしっこ?」
「うん。ごめんな狭くて」
「お母さんは座っておしっこするん?」
「そうやで」
葵と一緒に手を洗い、エレベーターにむかう。地下の駐輪場に着いてエレベーターが開くと熱気が押し寄せてきた。水筒はほとんど飲み干したにもかかわらず最初より重くなった気がするリュックを自転車のかごに乱暴に入れる。
地上に出てから葵をフロントシートに乗せ、ペダルに体重を乗せる。すぐに汗が噴き出した。
葵は本当に健常児なんだろうか。
『こればっかりはね、根気強く言い続けるしかないんですよ』
根気強く、我慢強く、言っているつもりだった。
まだ足りないのか。
あとどれくらい、言い続けなければいけないのだろう。
駐車場で、スーパーで、走ってはいけない。こんな死ぬほど簡単なことが、どうしてできないのだろう。
いや本当は喜ぶべきなのだ。未だに信じられないが、葵の発達に問題はないらしい。明日の登園時に松井先生に報告しよう。
発達相談を受けることは事前に知らせてあり、今日の結果を密かに気にしていることは先生との会話の端々から伝わっていた。
私はきっとお墨付きをもらいたかったのだ。この子は発達障害だから仕方がない。私の育て方が悪いのではないと、証明してほしかったのだ。
帰り際にもらったチラシを思いだす。発達相談を受けた保護者の方へ。子育てハンドブック。ひとりで悩まないで。
ひとりで悩まないで。
無理だ。そんなこと。
こらえられなかった。涙が次々とこぼれる。悔しかった。どうしてこんなに上手くいかないのだろう。どうして私はこんなに未熟なんだろう。
一体どんな風に声をかければ、葵は言うことを聞いてくれるのだろう。
赤信号で止まり、袖で涙をぬぐうとファンデーションがついた。どうでもよかった。どうせよれよれの安物だ。
疲れた。
鼻をすする音が聞えたのか、一緒に信号待ちをしていた老婦人がこちらを見、すぐに葵に笑いかけた。ぐっと涙をこらえると引っ込む気配がしてほっとする。
私のことは眼中になさそうだったが、信号が青になったのでペダルを踏む前に念のため頭を下げてから自転車を走らせる。
今日の晩ごはんは午前中に作っておいたので、あとはお米を炊くだけだった。先に作っておいて本当によかった。無事に家に帰ることだけを考えて、帰ったらまずはシャワーを浴びよう。
いつもお疲れさま。
自分で自分を労う。その虚しさには気づかないふりをして。
葵が空を指さす。飛行機雲のきれいな直線が見えた。
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