第6話 三歳半健診

 九月 三歳半健診に行った。あんなに手が付けられないのに、葵の発達に問題はなかった。やはり私の育て方が悪いのだろうか。もっと叱って育てるべきなのだろうか。


 早めのお昼を済ませて洗い物を終えると、十二時を五分ほど過ぎていた。窓を閉めるついでに空を見上げる。きれいな青空が広がっていてほっとする。三歳半健診の会場である保健センターへは、自転車を使っても二十分以上かかるので、雨だけは降りませんようにと一か月前から祈っていた。

 運転免許は持っていたが、自家用車は夫が通勤で使っているので平日に運転することはできなかった。夫が何度か運転を勧めてくれたが、退屈な車内で暴れる葵の相手ができなくなるので断っていた。そろそろ運転すべきかと思った頃にはハンドルを握るのが怖くなり、記念すべき一人のペーパードライバ―が誕生した。

「今日はどこ行くん?」

 こども園を休むことは事前に葵に伝えてあった。どこかへおでかけすることはなんとなく分かっているようだった。

「三歳半健診に行くよ」

「なにそれ」

「葵の身体が元気かどうか確認するねん。お友達いっぱいおるよ」

「咲良ちゃんは?」

「咲良ちゃんはこども園」

「僕もこども園行くの?」

「こども園は休み。行ったらわかるわ」

 健診が終わるまでじっとしてくれるだろうか。いや、してくれるわけがない。

 健診後に希望者のみ行われる発達相談には、保健センターから問診票の入った封筒が届いてすぐに予約を入れた。葵の発達について相談し、障害があるかどうかを早く教えてほしかった。

 サイズの小さい絵本を何冊かリュックに入れる。昼のおむつは取れたものの、念のため二枚のおむつとおしりふき、タオル、水筒二本、保険証、母子手帳、問診票、ポケットティッシュ五個、ビニール袋五枚、財布、スマホ。これで足りるだろうか。

 重いのが当たり前になっているリュックを背負い、葵と一緒に玄関へ行く。自分で靴を履き玄関を出ていく葵を追いかける。

「しゅっぱーつ」

 葵の号令でペダルに体重をかける。九月の中旬を過ぎ、早朝だけはほんの少し秋の気配を感じるようになったものの、昼間はまだまだ暑すぎる。

 秋の終わりには銀杏並木になる歩道を走っていると葵がセミ! と指をさして教えてくれたが、怖いので直視せずに素通りする。子どもの頃の私はセミにほとんど興味がなく、セミ取りは一度もしたことがなかった。セミは意外と大きいのだと気づいたのは葵と外で遊ぶようになってからだった。

 赤信号のたびに水分補給をしながら葵の汗を拭き、ついでに自分の汗も拭く。保健センターに着くころには汗だくになっていた。


 地下の駐輪場に自転車を止める。葵にお茶を飲ませ、時間を確認すると健診の三十分前だった。エレベーターに乗って会場に行くとすでに四組が並んでいた。後ろに続く。

「まだ?」

 並び始めて一分も経っていない。持参した絵本を渡すと受け取ってくれたのでほっとする。立ちながら読むのが難しいので二人でしゃがむ。私が絵本を支えつつ、葵がページをめくる。リュックがかさばって邪魔だし、絵本を支える腕も疲れる。でも誰も助けてくれないので耐えるしかない。あと二十五分。


 後ろに数人並んでいるのは気づいていたが、一つ後ろの母親が子どもにスマホを見せていることに気づいた。急いで前を向く。もし画面が見えてしまったら葵は間違いなく釘付けになるに違いない。消音モードにしてくれて本当にありがとう。

 身体を傾けて前方を確認すると、ほかにスマホを見せているのは先頭で待っている母親だけだった。音は聞こえてこない。こういう時は消音モードにするのがマナーなのだなと知る。視界を工夫すれば葵に気づかれずに済むだろう。


 絵本をめくる葵の横顔を見る。子どもを産む前は思っていた。子どもにスマホを見せるなんて。中学生からでも遅くない。私たちが子どもの頃は。

 ため息交じりに笑うしかなった。子どもを大人しくさせろと言うからスマホを見せれば母親失格。突然走って迷惑をかけないようにハーネスを付ければ「犬みたい」。じゃあどうすれば大人しくさせられるのか、実践して教えてほしいところだ。周りに迷惑をかけずに子育てするのがこれほど難しいことに、生むまで気づけなかった自分に死ぬほど腹が立つ。


 しゃがんでいる姿勢が辛く、絵本を支えたまま身じろぎする。

 子どもは、親が正しく声掛けをすればすぐに応えてくれるものだと思っていた。乱暴な子どもは親の育て方が悪いのだと本気で思っていた。私は大丈夫、なんだってできると信じていたころの自分を蔑む気持ちがむくむくと湧いてくる。

「お母さんまだ?」

 読み終わった絵本を受け取る。もう一冊出したが断られた。

「あともうちょっと。あと十五分」

 大人のもうちょっとは全然ちょっとじゃないと幼いころから知っていた。自分が言われて嫌だったことを葵に言っている。

「エレベーター乗りたい」

 言い終わる前に走り始めてしまった。

「お母さんが読んであげるから一緒に絵本読もう」

「いや」

 無理だ。時間切れ。こうなったら最終奥義を繰り出すしかなかった。

「これっくらいの、おべんとばこに」

 葵が振り向く。

「おにぎりおにぎりちょいとつめて」

 葵が戻ってきた。

「きざーみしょうがにごましおふって」

 大げさな身振り手振りで気を引く。周りからの視線を感じるが、恥ずかしいなんて考えている場合ではなかった。

 人前でこんな歌が歌えるようになるなんて、母親ってすごい。

「にんじんさん、さくらんぼさん」

 葵も一緒に手を出して歌っている。いつのまにかピースが上手にできていることに気づく。

「しいたけさん、ごぼうさん、あなーのあいた、れんこんさん」

 スマホを見ていた後ろの子どもがこちらをじっと見ていることに気づいた。

「すじーのとおったふーき」

 終わり? という顔をする葵と一緒にもう一度歌う。いつのまにか前に並んでいた子どもたちも母親と一緒に手遊びを始めていた。


 予定より五分早く始まった受付に心の中で歓喜しながら立ち上がった。

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