第5話 咲良ちゃんのお母さん(2)
「咲良ちゃんのおかあさーん」
教室のざわめきが戻る。
葵君が廊下にいる私に向かって一直線に走ってくる。止まらずにそのままの勢いで腰に手をまわしてきた。予想していたよりも強い勢いを受け止めきれずよろけてしまう。思わずといった様子で夫が背中を支えてくれるのがわかった。
「こら葵。やめなさい」
「葵くん元気?」
わんぱく坊主に笑顔を向ける。うちの子がよそ様にこんなことをしたらすぐ𠮟りつけるところだが「こら葵」ってそれだけ? ちょっと甘くない?
「げんき!」
「葵くん! 店員さんがいなくてみんな困ってるよー」
担任の松井先生が呼んでいる。女性のベテランの先生だとわかったときは本当に嬉しかった。
入園式が終わってすぐに声をかけ、咲良の反抗的な態度について相談した。自立の始まりなので必ずしも悪いことではないが、相手を傷つけるような言動をしたときだけは譲らずに叱っていきましょうとの答えに確かな経験が裏打ちされており、心強さを感じたのを覚えている。
「ほら、お母さんに格好いいところ見せて」
「わかった!」
走って教室に戻る背中を見送る。すれ違う葵君に手を振り、嬉しそうに歩いてくる咲良を笑顔で迎える。
「咲良はお客さん?」
「うん。お父さん一緒にパン買いに行こう」
突然のご指名に気をよくした夫が、咲良と手をつないで教室に入ろうと一歩を踏み出す。
「咲良な、葵君と結婚したい」
夫がボディーブローをくらったときのように体を折り曲げている。顔をゆがめて声を絞り出した。葵君のお母さんが困ったように小さく頭を下げる。
「アオイクンッテ……」
咲良を離してなるものかと、夫が手をつなぎなおすのが見えた。背中をポンポンと励ますようにたたきながら、教室にいる夫の恋敵を指し示す。
「あれ」
「イマココニ、イタ、アイツカ……」
「お母さん、人を指さしたらあかんで」
「はいはいわかった」
「アイツ……アイツガ……」
名札の色の違いはあるものの、教室にはお客さん役の年少、年中、年長児が頻繁に出入りするので、何が何だかわからない状態になっていた。
「葵君は咲良と同じ組」
「アオイクン……オボエタゾ……ウチノムスメニ……」
「お父さん何してんの。早く行こう」
悲壮感を背負った夫が、咲良に促されるまま店員役の葵君からパンを受け取っていた。受け取り方がやや乱暴だった気がするが、見ないふりをする。
「さっきはごめん。全然言うこと聞いてくれへんから。大丈夫やった?」
全然言うことを聞かないって、それはあなたが甘やかしてるから当たり前じゃないの? 葵君みたいな子はもっと叱って育ててもいいと思うけど。
そんな言葉、言いたくても言えるわけがなかった。それに他人の子のしつけなど正直どうでもよかった。自分の子をしつけるだけで手いっぱいだ。
「全然いいよ。元気でいいやん」
「もう元気すぎるわ」
本気で困っている様子を見て、じゃあもっと厳しくすればいいのにと言いたくなる。
「葵君って二号認定やんな? うち一号」
「そうなんや。私はパートやから認定もらえるか不安やったけど申請が通ってよかった」
「なんのパート?」
「工場で検品してる」
なるほどと納得する。工場内で帽子を被って働く葵君のお母さんは容易に想像できた。
松井先生の声掛けで店員さんとお客さんが入れ替わる。次は咲良が店員さんだ。
「おかあさーん」
葵君が再び走ってくる。一瞬身構えたが、私ではなく自分のお母さんへ思い切り突進していった。力が強すぎる気がするが、彼女に注意する気はないらしい。
「葵君、元気やね」
「うん!」
皮肉に聞こえないのを幸いに、言いたいことを口にする。店員になった咲良を見届けた夫が廊下へ戻ってくる。夫の目が明らかに葵君を意識していて笑いをこらえるのに苦労した。
「お母さん! 迷路の部屋行こう」
「先に咲良ちゃんのパン買いに行こうや」
「えーいやや。迷路がいい」
めいろめいろと飛び跳ねながら母親の服をひっぱり、その勢いのまま身をよじって彼女の服をびよんびよんに伸ばしている。誰がどう見ても明らかに引っぱり過ぎていると思うのだが、何も言わずされるがままになっている彼女にはあきれてしまう。
仕方ないなと思いながら目の前のわんぱく坊主に声をかけた。
「なあ葵君、パンの買い方わからへんから教えてくれへん?」
「いいよ! 簡単やで! お母さんも早く! 咲良ちゃんとこ行くで!」
自信満々に歩いていく背中を見つめる。男の子は楽でいいな。絶対に言ってはいけない言葉が浮かんで消える。
「ほんまにありがとう。一緒にいてくれてよかった」
「いえいえ。お互いさまやから」
甘やかして育てたら大変やね。私みたいにもっと上手にやらないと。これからも助けてあげるから仲良くしてね。
葵君を追いかけて先を急ぐ彼女の背中に向かって心の内でそっと語りかける。
「咲良は絶対に渡さんからな。次にあいつを見かけたら」
「わかったわかった」
「もしあいつが結婚のあいさつに来てみろ。俺より弱いやつに咲良は渡さんからな」
「はいはいわかった」
「キスでもしてみろ。クギ打ったバットでケツをフルスイングか、クギ打ったボールでデッドボールのどっちがいいと思う」
「死ぬ死ぬ」
「大丈夫や。バットもボールも廃棄寸前のやつ使うから」
「いや意味わからん」
二人がいつも手をつないで遊んでいることを知ったら夫はどうするだろうか。しばらく公園の付き添いは頼めないなと落胆しながら、店員さんの咲良に向かって歩き始める。
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