第4話 咲良ちゃんのお母さん
四月
急ぎ足で年少組のクラスへ向かう。
「お父さんも来てって言っといてや。絶対やで」
初めての授業参観に張り切る咲良を思いだし、つい笑みがこぼれる。乗り気でない夫を横に携えて教室へ向かうと葵君のお母さんに会えた。夫は放っておいて廊下で一緒に見学する。
今日の参観は全学年で行うおみせやさんごっこだった。ときに四つん這いになりながらゴールを目指す迷路のクラス、輪投げやコマ回しなどの楽しいお祭りのクラス、毛糸やビーズを使って再現した食べ物を売るお店屋さんのクラスなど、学年が上がるに連れて完成度が上がっていくのを実感できる参観だった。異年齢交流を兼ねているらしく、年少のお店に年長が遊びに行くこともあった。
咲良はパン屋のお客さんだった。小さく手を振ると、喜びを隠すようにぷいと顔をそむけてしまった。はいごめんねと視線をそらし、葵君のお母さんに話しかけることにした。
「葵君と同じ組になれてよかった」
これはずっと言いたかったことだ。クラス分けが発表されてから彼女と話すのは初めてなので、改めて二人で喜び合った。
「咲良ちゃん最近ちょっと大人っぽくなった?」
「全然。反抗的な態度にイライラするわ。よく嘘もつくし」
「え、もう嘘つけるようになったん。全然見えへんな」
本当はもっと早く仲良くなりたかった。二週間前の入園式に夫と出席したとき、そばに葵君のお母さんと旦那さんがいたが、そのときはまだ見知らぬ他人だった。
式当日、親と離されて泣いている子どもが先生に抱っこされているなかで、咲良は不安を隠せずたびたび後ろを振り返って私を確認していた。いますぐ咲良の椅子まで駆け寄ってあげたい気持ちをこらえる。
『これから にゅうえんしきを はじめます みなさん たちましょう』
先生の合図でみんなが立ち上がる。咲良もきちんと立ち上がった。それだけで涙が出そうになった。
『おかあさんおしっこ』
その場にいる全員が「今?」と思うタイミングだった。声の主にそっと目を向けると、園児の兄弟と思われる二歳半くらいの子どもが母親を見上げていた。もう昼のおむつが取れていることに尊敬のまなざしを向ける。
相手をしている母親は抱っこひもで眠る赤ん坊を背負っていて、着ている服と抱っこひもがあまりにも似合っていなかったことを覚えている。
夫らしき人は見当たらない。下の子どもたちを連れてきたということは誰にも預けられなかったのだろうか。
『私が連れて行きますよ』
葵君のお母さんだった。とっさに遠慮する母親に彼女は首を振り、その子と手をつないで静かに廊下へ行ってしまった。
信じられないような神対応に瞠目する。自分の子どもの入園式より他人の子のトイレを優先するなんて考えられなかった。私だったらきっと心の中で大変だなと思いつつ、困りながら廊下へ出ていく母親と子どもに道を譲るくらいのことしかしないだろう。
しばらくしてすっきりした顔の子どもと一緒に戻ってきた葵君のお母さんは、母親の感謝の言葉を笑顔で受け止め、何事もなかったかのように入園式に出席していた。その姿を見て、この人と仲良くなりたいと強く思った。
入園式以降も葵君のお母さんと顔を合わせる機会はあったが、彼女は働いている人特有の慌ただしい雰囲気をまとっていたのでなんとなく話しかけづらく、たまに園内ですれ違うときにあいさつに加えて少し話す程度だった。「もうすぐ参観」の話題を引っ提げて思い切って話しかけ、連絡先を交換したのだった。
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