第3話 スーパーへ行くだけ(2)
「葵!」
半泣きの葵が両手をあげて走ってくるのですぐに抱きあげた。しゃがんだ大人が立ち上がってこちらを見た。五十代くらいの男性だった。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
男性は私を一切見ようとせず、葵に手を振って立ち去って行った。
お前母親やろ。ちゃんと見とけよ。
歯を食いしばって両手を強く握りしめる。悔しい。どうしようもなく悔しい。
言い返す気持ちも起こらなかった。少し前まで私もそっち側にいたはずなのに。葵をコントロールできない私に非があるのは明確だった。
「お母さん、おやつほしい」
お願いです。だれか葵を誘拐してください。差し上げます。もういらないので。
「……なんて言うの」
涙を気力でねじ伏せ、目の前の諸悪の根源に向かって声を絞りだす。
「ごめんなさい」
どうでも。言葉を飲み込んで口を開く。
「いいから早くお菓子選んで」
産んでしまったものは仕方がない。育てるしかない。でも本当は一秒も一緒にいたくなかった。出来損ないの深呼吸で自分を落ち着かせようと努力する。
勝手にいなくなった罰としてお菓子を買わないとでも言えば暴れてしまうだろう。暴れる葵を家に連れて帰る気力は、もう残っていなかった。
選んだお菓子を嬉しそうに持ち、空いた手で私の手をつないでくれた葵を連れてレジへ向かう。すべてのレジに人が並んでおり、少しでも早く進みそうなレジを選ぶ。
「お母さん、開けて」
「まだ。お金払って家で食べよう」
「えー?」
待てずに騒ぎ始めた葵をなだめる。とっさに先ほどの男性を目で探すが、幸いなことに近くにはいないようだった。
「おやつ食べたい!」
「レジの人にピッてしてもらってからな」
「いや! 今食べる!」
「わかった。お金払ったらすぐに自転車で食べよう。だからもうちょっとだけ待って」
「いや!」
「お願いやから静かにして。もうすぐ順番やから」
言い終わる前に床に寝転がってしまった葵を見下ろす。
叱る体力は残っていなかった。疲労がゆっくりと全身を包んでいく。
子どもを産む前の自分って、どんな生活をしていたんだっけ。
自分に注目が集まっていくのを見るのが嫌でしゃがむ。疲れた顔を取り繕うつもりはなかった。私の顔を見ても葵の行動に変化はない。すべていつも通りだった。
りんごを選ぶお母さんのそばで大人しく待っていた男の子が頭をよぎる。
私もあの子のお母さんになりたかった。そう思ってしまった自分はやはり母親失格なのだろう。
「もう放っとき」
振り向いて涙を乱暴に拭う。後ろに並んでいた六十代くらいの女性が、やれやれという顔で葵を見ていた。
「この子いくつ?」
「今月で三歳になりました」
あそう。そろそろ楽になっても良いころやのになあと独りごとが聞こえる。そんなつもりはないのだろうが、自分の育児が否定されたように感じてうつむく。
「きっとお母さんが優しいから甘えてるんよ。この子はおばちゃんが持って帰ったるわ。お母さんは一人で帰り」
「いいんですか」
思わず口からこぼれ出る。知らぬ間に立ち上がっていた。ちょうど似たようなことを考えていたんですよ。
「おいで。おばちゃんと帰ろうか」
手を差し出す女性を見た葵はすぐに立ち上がって首を振る。
「お母さん嫌なんやろ?」
ぶんぶんと首を振ってしがみついてきた葵を見て思わず吹き出してしまった。
いつの間にか順番がきていて、次の方と声をかけられる。葵が真っ先におやつを渡し、店名の入ったテープを貼ってもらっていた。
会計を終えて葵と一緒に袋詰めをし、女性に挨拶をする。
「お母さんお疲れさま」
葵に手を振ったあと、すれ違いざまに私の背中に優しく触れて女性は言った。
息をのむ。
しまった。とっさに浮かんだのはそれだった。彼女の声は、同じ経験をした人間にしか出せない声をしていた。背中に触れた手は、家族を守ってきた優しさに満ちていた。
幾重にも防御したはずの、ずたずたの心に女性の思いやりが沁み込んでいく。
叶わないから、考えないようにしていた。
録画したまま観ずに消したドラマ、劇場で観たかった映画。あと二ページで読み終わる本のしおりを半年後に外し、本棚に戻す自分を眺めるもう一人の自分。
自分を殺し、欲望を抑えつけ、心の声を封じ、鉄壁に守っていたつもりだった。それでも、女性の思いやりが心に沁み込むのを止められなかった。
身体が熱くなり、我慢するのは無駄だと悟る。片手にエコバッグ、もう片方の手で葵の手をつかみ小走りで駐輪場に向かい、葵を乗せてすぐに出発する。できるだけ人の少ない場所を選んで自転車を止める。
お菓子を乱暴に開ける。それを渡して葵を黙らせ、葵が使う用に持ち歩いているポケットティッシュで目を覆うと嗚咽が止まらなくなった。ティッシュの中身をすべて出し、涙と鼻水を同時にぬぐう。
孫を催促したくせに世話をする気配の全くない、私の母も夫の母も大嫌いだ。しんどいのはお互い様だからと、コミュ障特有の理屈を持ち出しねぎらいの言葉を言うつもりもない夫も、心の底から大嫌いだった。
ケーキじゃない。アイスじゃない。家事は私がするから。
いつもお疲れさま。いつもありがとう。
それだけでいい。欲しいのは、その一言だけだった。
涙よ止まれ。ぐっと腹筋に力を入れるが無駄だった。観念し、しばらくのあいだ流れるままにする。
サクサクと上機嫌な音を立てていた葵が静かになったと気づき顔を上げる。不思議そうな顔をしてこちらを見ている葵と目が合うと、じわっと動き出す気配がした。
「お母さん、おやつ食べちゃった」
ティッシュを使い切ってしまったので仕方なく服で鼻水をぬぐった。少しの間ではあったが、静かにできるようになっている葵に成長を感じる。
「ごめん。帰ろうか」
スタンドを降ろしてまたがる。
「のど乾いた」
「ほんまやな。すぐ帰るから家でお茶飲もう」
ペダルに力を込め、前に進む。
「おやつおいしかった。お母さん大好き」
ハンドルをぎゅっと握る。返事はできなかった。黙っていると葵が空を指さした。
「お母さん見て! ひこうき!」
だから無理なんですってば。
「ほんまやなあ。大きいなあ」
「大きくないで。めっちゃ小さいで」
「ほんまやなあ。小さいなあ」
葵はまだ実物大の飛行機を見たことがないのだなと気づく。週末のおでかけ先について夫と相談してみようか。
「飛行機ってさ、なんで空飛んでるか知ってる?」
ペダルに力を入れながら葵に聞いてみる。
「飛行機はな、鳥さんがお空を飛んでるの見て、僕も飛びたいなって思ったから飛んでるんやで」
心の汚れきった自分には絶対に出せない答えに声を出して笑う。きょとんとする葵に謝りながら、近いうちに必ず飛行場へ行こうと決める。
信号待ちのときに空を探してみたが、青空にはきれいな薄雲が広がるだけで飛行機を見つけることはできなかった。
帰宅してシンクの洗い物を見てスポンジを買い忘れたことに気づいた。エコバックからりんごと玉ねぎを取り出す。のどが渇いたと言う葵に慌ててお茶を渡しながら、玉ねぎは交換するだけで良かったことを初めて思いだした。
もういい。晩ごはんの時間までにハンバーグを無事に作り終えることだけをひたすら願いながら玉ねぎの皮をむく。
今日も無事に家に帰ることができた。それで十分だと思い込むことにした。白く光る玉ねぎを見つめる。そうする以外に生きていく方法など思いつかなかった。
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