第2話 スーパーへ行くだけ

二十二年前


二月 葵が三歳になる。スーパーで迷子になって肝を冷やした。疲れたけど名前も知らない女性が労わってくれて嬉しくて涙が止まらなくなった。葵と外出するのは辛いけど、わかってくれる人もいる。自分が死ぬが先か、葵の成長が先か、毎日綱渡りのような生活をしている気がする。


 晩ごはんに使う玉ねぎを半分に切ると、中のほとんどが腐ってしまっていた。玉ねぎは一つしかない。今晩のメインはハンバーグで、玉ねぎの半分はひき肉と混ぜ、残りの半分はスープにする予定だった。購入したスーパーに行けば取り替えてもらえるが、葵を連れて行くのは憂鬱だった。

 ハンバーグは玉ねぎなし、スープはみそ汁に変更することもできるのでスーパーに行かなくても何とかなる。

「葵、スーパー行こうか」

「行く行く!」

 具だくさんの玉ねぎスープは毎日遅くまで働いている夫の好物だし、ハンバーグに玉ねぎが入っていないのは食感がさみしくなる。憂鬱な気持ちを丸めて放り投げたつもりにして外に出る準備をする。

 お外に行く前に片づけようか。そう言うのはとうの昔に諦めた。そんなことを言っていたら外出するのに五十分はかかるだろう。「足の踏み場もない」を初めて体験したのは、葵を産んで二年が経ったころだった。普通なら五歩でたどり着くタンスでも、足を置く場所がないと本当に目的地に行けないのだなと、畳んだ洗濯物を抱えたリビングで立ち尽くした。


 さむいと言ったので着せた上着はいつの間にかゾウのお人形さんが着用しており、出しっぱなしのレゴブロックのすぐ横にラキューブロックが幅を利かせ、つなげるのを途中であきらめた水色のプラレールでは電源の入ったドクターイエローと南海ラピートが壁に向かって喧嘩をしている。開かれたままの絵本は明らかに踏まれた形跡があり破れているように見えたが、もう見ないふりをした。

「プラレールのスイッチだけ切っとこうか」

「わかった!」

 おもちゃの間を器用に歩き、カチカチカチカチ……と持ち主を呼ぶ音を立てる電車たちの電源を止める。戻るときに当たり前のように人形を踏みつけ、滑って転ぶ葵をただ眺めていた。レゴブロックとラキューブロックが、出来損ないの受け身を取った葵の腕によって仲良く混ざり飛び散る。

「痛い!」

 背中に硬いものが当たったようで泣き始めてしまった。

 人形を踏めば転ぶという事実に、いったい何度踏みつければ気づいてくれるのだろう。いつの間にか苛立ちのスイッチが自動で入るようになっている脳内を少しでも落ち着かせるために、出来損ないのため息を吐き出す。

「どこ痛いの」

 放置して買い物に行ってしまいたい気持ちを懸命に抑えて葵に向き合う。服をめくると背骨の近くが少し赤くなっていた。泣いた葵を抱っこし、背中をさする。触らせてもらえるということは大丈夫だろう。本当は言いたくなかったが仕方がない。

「スーパーでおやつ買おうか」

 言った瞬間に泣き止んでくれる。おやつの存在する世界で子育てができて本当によかった。おやつ様いつもありがとう。頼りにしています。

「スーパー行く」

「スーパーでな、お母さんと手をつないでほしいねん」

 涙の残る葵の目を見て言う。

「うん」

「スーパーでな、走らんといてほしいねん」

「わかった。早く行こう」

 本当にわかってくれたのだろうか。財布、エコバッグと準備をしている間に玄関の扉が開く音がする。

「靴履いた?」

 少し前までは私が履かせていたのに、中途半端に自分でできるようになってきたので却ってこちらの手間が増えた気がする。まさか裸足で外に出てしまったのだろうか。いや、私のまねをするのが大好きだから靴も履いているはずだ。左右で正しく履けているかも気になる。

 車がきて危ないから勝手に外に出ないでと、少なくとも二十回は叱ったのだが、もうあきらめた。叱っても叱っても、何度も何度も何度も目を合わせて伝えても、私の言葉は届かない。絶望する時期は終わった。今は耐えるときだと言い聞かせる。

 玄関へ急ぐ。自転車の前で大人しく待っているだろうか。

「葵」

 玄関の掃除をしていたお向かいさんに挨拶をする。他人行儀な挨拶が返ってくるが気にしない。総戸数十二区画、家の外観もほぼ同じで、住人は子育て世帯が大多数を占めるので近所づきあいもしやすい。

 初めの頃はメリットしか感じなかったが、一度仲間外れにされたら人生が終わるということに、購入して半年も経たないうちに気づいた。

 大阪市内で育った私が夫の仕事の都合で東大阪市に引越して、もうすぐ一年になる。

 待て待て、同じ大阪府やんな? と言いたくなるほど人との距離が近く、顔は笑っているのに目が笑っていない高齢者、今日の晩ごはんなに? の答えから年収を予測してくる近所の小学生、犬の散歩と見せかけた服装自慢。実家で生活していたときの近所づきあいを親まかせにしていた私は、不用意な一言でママ友の逆鱗に触れ、引越して五か月で一人ぼっちになった。

 買い物はできるだけ近所の人が外にいない時間帯を狙っていたが今日は仕方がない。玉ねぎを買うときに中身を透視できなかった自分が悪いと言い聞かせる。

「葵」

 生活道路までは五十メートルほどあるので大丈夫だと思うが、たとえ葵が道路に飛び出しても近所の人は止めてはくれないだろう。今も、私が葵を探していることに気づいているはずなのに、お向かいさんは何の反応も見せない。

 と思ったら、すぐそばに葵がしゃがんでいた。お隣さんが育てている花壇を黙って観察している。普段はうんこに過剰に反応したり何かとやかましいのに、一度興味を持つと存在を消せるほど対象に集中できることがいつも不思議だった。

 こうなると耳も聞こえなくなることは経験上わかっていたのでそっと肩に手を乗せ、声をかける。

「きれいやね」

「このお花なんて名前?」

 振り返った葵の目の焦点はパンジー用になっていて、まだ集中力が切れていないことがわかる。

「パンジー」

 質問に答えながら自転車へ歩いていく。早く玉ねぎを交換してしまいたい。ついでにスポンジも買いたかった。

「葵、行くよ」

 こちらの都合に頓着せずパンジーの観察を続ける背中を蹴飛ばしてやりたい衝動を抑える。無視をしているわけではないのだ聞こえていないだけだ落ち着け落ち着け私は頑張っている大丈夫だと自分に言い聞かせる。すぐに沸点に達しようとする自分をため息で落ち着かせようと努力する。夫も親戚も誰一人私をねぎらってくれないので、最近は自分で自分を褒める癖がついた。

 小さく息を吐き葵のもとに戻る。パンジーはきれいだ。それはよくわかる。ただ、そんなに夢中になるほどの魅力のある花には見えなかった。

玉ねぎとスポンジを、早く買いに行きたい。

「一人で外に出たらあかんって言ってるやんな」

「うん」

「お母さん心配やねん」

「ごめんなさい。パンジーきれいやね」

 徒労感がつきまとう。もう一度自転車に向かって歩き始める。

「お菓子買うで」

「乗る!」

 パッと立ち上がって自転車まで走ってきたので、抱きあげてフロントシートに乗せる。

「背中はまだ痛い?」

「もう痛くない!」

「はい出発します」

「おやつおやつ! お母さん早くして」

 早くしてほしいんやったら玄関で大人しく待っててや。再び沸点に達しようとする自分を歯を食いしばって抑える。掃除を続けるお向かいさんに頭を下げてからペダルに体重をかける。

 しばらく自転車を走らせていると自然に深呼吸が出た。心が落ち着き、イライラがしぼんでいく。桜咲いてる! という葵の声もすんなり耳に入ってくる。

「こども園に咲いてるのはな、もっと大きいやつやねんで!」

 いつのまに桜の名前を知ったのかと思っていたが、園庭に桜の木が一本、堂々と立っているのを思いだした。

「お母さん! ひこうき! 見て!」

「ごめん無理」

 空を指さす葵に容赦のない返事をする。

「ひこうき雲! 見て!」

「無理。車にひかれたら大変や」

「見てって! ほらあれ!」

 うるさいな。空に一瞬だけ視線をやり、見たことにする。

「ほんまやなあ。すごいなあ」

 信号が点滅したのでブレーキをかける。無理をすれば渡れただろうが、万が一事故にあったらと思うといつも手が勝手にブレーキをかける。このさき一生、葵の世話をしなくても良いなら死さえ喜んで受け入れる。でももし生き残ってしまったら? 元通りの生活に戻るまで一体どれだけ自分の時間を削ることになるのだろう。最大に嫌悪すべきことは、万が一、元通りの生活が送れなくなってしまったら? それだけは絶対に嫌だった。そんな人生を送るくらいなら信号なんていくらでも待ちますと思えるようになるまで大した時間はかからなかった。

 危ない場面では自分が率先してブレーキを使う。そのおかげで防げた事故は十回をはるかに超えているはずだった。そのうち二度は、あのときブレーキを使っていなければ道路にたたきつけられて車の下敷きになっていただろうと、運転手には涙を流して喜んでほしいくらいの賢明さだったと思っている。あなたが人殺しにならず今も運転できているのは私のおかげです。感謝してハンドルを握りなさい。そう言ってやりたい運転手の何と多いことか。

 青になったのでペダルに力を込める。玉ねぎとスポンジ玉ねぎとスポンジ玉ねぎとスポンジ。買うべきものはたった二つなのでメモは取らなかった。頭の中を玉ねぎとスポンジでいっぱいにしてスーパーの駐輪場に自転車を止める。葵を降ろし、自分もしゃがむ。

「お店の中でな、走らんといてほしいねん」

 いつも通り葵の目を見て言う。

「わかった!」

「お母さんと手をつないでほしいねん。お店の人に迷惑やからな」

「わかった!」


 手をつないで店内に入り、たった四歩で振り払われる。

「ちょっと待って! りんご買おう!」

『葵君に選んでもらったらどうですか?』

 リフレッシュ型で申請し、一時保育で週三日通っているこども園の保育士さんのアドバイスだった。それを試す間もなく、たくさんの買い物客に迷惑をかけながらお菓子売り場まで走って行ってしまった。葵と同じくらいの年齢の男の子を連れたお母さんがりんごを選んでいるのが目に入る。男の子はお母さんと手をつないでいないにもかかわらず、おとなしくそばに立って母を待っている。

 あとどれくらいこんな生活が続くのかと考えてしまった自分に絶望し、二秒で葵を見失った自分を責め、ほしくもないりんごを一つかごに入れる。四月から同じこども園に入園予定なのだが、本当にやっていけるのだろうか。

 何を買いに来たんだっけ。疲労感と徒労感とともに生活するのが当たり前になった毎日を過ごし、削られてはいけない神経が削られ、それに気づかないよう日に日に鈍感になっていく脳を無理やり働かせる。

 玉ねぎだ。今日はハンバーグを作るんだった。

 いつものバラ売りコーナーに玉ねぎの姿がなかった。仕方がなく三個入りをかごに入れ、小走りでお菓子コーナーに向かう。葵は見当たらなかった。周りを見回してもいない。心臓が早鐘を打つ。どうしよう。もし外に出てしまっていたら。

 レジの方へ向かって歩き始めたとき、視界の隅にしゃがんでいる大人の背中が見えた。向かいに葵らしき子どもが見え、思わず走っていくと間違いなく葵だった。

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