第3話:その老人は何者なりや?
泳ぎ始めて数分経っただろうか。
巨大な水柱が消えた大海を前にして方向も何もありはしないが、それでも僅かな変化も見逃すつもりはなく必死に辺りを見渡していた。
恐らく水柱が上がったであろう地点に到着し、全方位を僅かな変化すら見逃したくなくて隈なく探すと―――
「あれは……人、か?」
―――まるで大型の肉食動物のように顔を水面につけた何かがいた。
しかしまじまじと見ると、それが動物の毛皮と思われるローブを身に纏った痩せ細った人であることが分かる。
「まずいっ。あれじゃあ呼吸が出来ないっ!」
すぐさまその人の近くまで泳いでいくと、やはり動物の毛皮で出来た立派であっただろう髭を蓄えた老人だった。
口元の髭は海水で濡れて水分含み、その結果なのか老人の顔を水面につけさせることになってしまっていた。
「おい! 大丈夫か!?」
この極限状態のなか年齢の差などどうでもいいもの。
今はただ少しでも状況を知りたくて、なによりこの話し相手すらいないあまりにも最悪な状況を抜け出したくて必死に老人の意識を呼び起こそうとしていた。
海水を飲んでしまったかもしれないと思い老人の背中を強く叩く。
水の中だからか思っている以上に腕の振りは強くしなければ効果は無い。
一発一発の張り手に起きろと強く念じながら叩いて三発目のことだ。
「ごほっ! かはっ!?」
老人のしゃがれた声と口から出た少量の海水が海に溶けて消える。しかし老人の意識はかろうじで取り戻された。
「大丈夫ですか!? 俺の声が分かりますか!?」
「……ああ、聞こえとる。そう声を張り上げるでないわ」
うっすらと目を開けた老人は不機嫌を隠そうともせずに腕を上げようとした時、海水を吸った毛皮のローブの重さに溜息を吐いて視線を俺へと向ける。
「おい、小僧」
「こ、小僧って……」
「我の年が見て分からぬのか? 小僧は小僧だろう。それよりこの金獅子のローブを脱がせ。重くてかなわんわ」
「わ、分かりましたよ……」
傲岸不遜。そんな言葉を体現するような年寄りの言動に面倒な奴を助けたと後悔したが時すでに遅く、老人は空を憎々し気に見上げながらローブを脱がすことを急かしてくる。
「はよせい。ローブを脱がすことも出来んのか?」
「俺は介護なんてやったことがないんですよ」
「介護? はっ! 言葉も碌に知らんのか。介護も介助も我には余計な世話よ。小僧が今やっているのはただの人助けじゃ。この金獅子のライフローブは海水を吸えば小型のエアパックが開いて着用者の身体を浮かせることが出来るんじゃ」
「はいはい、それは凄いですね」
「まあ3億4千万程度の代物じゃ。実際に使ってみれば自分では身動き出来ぬとは……」
「ふぅん。3億4千……3億ぅ!?」
腰帯を解いてローブはだけさせ、老人の枯れ木のような細い身体から毛皮のローブから腕を抜こうとした時に半ば聞き流していた老人の言葉に驚いた。
庶民の中でも中の下ぐらいの生活をしていた自分でも分かる高そうなローブだが、精々100万ぐらいかと考えていた矢先に飛んでもない値段のローブなのだと知る。
「そ、そんな……ただのローブに……3億?」
「……ふん。見るからに庶民の発想にして意見じゃの。睡眠の重要性を理解しておらん。まぁ、ええわい」
片腕が重たくなったローブから引き抜かれたことで、驚いて呆然として俺を無視して老人は自分の手でさっさとローブを脱いだ。
「ふむ。見たところ下層も下層。最下層の始まりの海ではないか。懐かしくはあるが面倒じゃの」
「あ、あんたここが何処なのか知ってるのか!?」
「なにを言って……ん? 小僧、お前の年齢はいくつじゃ?」
「18になった。昨日から会社に出社する予定で……でも起きたらこんなワケの分からない場所にいてっ!」
「………なるほど、そうか。小僧も小僧。なにも知らん新人の若造か。見たところ親の庇護下でのうのうと生きておったのが良く分かる阿保面じゃの」
「そ、そんなの見ず知らずのアンタに馬鹿にされることじゃ―――「何が出来る?」―――な、なにが?」
「若造のお前は何が出来るのかと問うておるのじゃ。お前の長所はなんじゃと訊いておる」
「えっと……履歴書にはコミュニケーション能力って書いたけれど……」
「はぁ……つまり無能ということか。実戦の場でコミュニケーション能力など大前提。自らの長所がない役立たずの苦し紛れの戯言。参考書などで読んだのをそのまま書いたか? それで採用する会社は人の足りない倒産間近の会社だの」
思い当たることをズバズバという老人の遠慮を知らない言葉に、ぐうの音も出来ず反論したくても反論も出来ない。
事実として自分には他人と比べて長所らしいものはない。テスト勉強も中の下を平均とし、体育の成績も特筆することのないものばかりだ。
仲のいい友人もおらず、知り合いが入社した会社がどこかすら知らない。
もちろんそんな自分に、彼女という存在がいた試しが皆無なのは言うまでもない。
「足手まといは要らん。精々達者で暮らせ」
「ま、待って! 俺はアンタを助けたんだぞ!? 今度は俺を助けてくれてもいいはずだ!」
どこかへ泳ぎ始めようとした老人を必死に呼び止めると、面倒臭いという態度を隠そうともせずに睨みつけるようにこちらを振り返る。
「なんじゃ?」
「こ、ここは何処なんだ? 俺は眠る前は確かに家にいた。普通の、どこにでもいる平凡な学生だった! 学校に行って勉強して部活をして、へとへとになりながら塾に行って勉強して何とか就職を成功させた! こんなよく分からない海で漂流してるはずがないんだ!」
「―――――――――騒ぐな、小僧」
それは推定年齢が80近いであろう老人の放つ雰囲気ではなかった。
ただ一言に込められた重みに言葉を失い、陽光が照り付ける海の中だというのに途端に身体が冷えたような気さえする。
「騒げば我が助けてやると思うのか? なにも知らぬから、困っているから助けてくれと? そんなことを臆面もなく考えているのであれば今この瞬間から改めよ。小僧の身の上話など今の我には何の価値もない」
「…………」
「だが、命を助けられた代価を払わぬのも理に反する。小僧の問いに答えてやる。ここは資本主義社海。自らが生み出す経済的価値によって住む階層が変わる資本構造。お前はただ、この社海という海に放り込まれただけじゃ」
老人が語る当たり前の、実感としては無かった資本主義という絶対的な大海に俺はすでに投げ込まれていたらしい。
あまりにも、突然に。
井の中の新社会人よ。資本主義の大海を知らず セントホワイト @Stwhite
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