第6話 あやちゃんがおもうには─地獄でも羊羹はうまい




私、高橋文(たかはし あや)は

八下薫(やつした かおる)が嫌いだ。

世界で一番嫌い。 

見るのもヤダ。

同じ空間にいるのもヤダ。

アイツの吐いた空気を肺に取り込んでると思うと胸の奥が痒くなる気がする。





そのくらい嫌い。





金髪に、クロムハーツの指輪と金のネックレス。

輩のくせにヴィンテージのTシャツなんか着てるからたまにスナップ写真を撮る人に声かけられるらしい。

それを自慢してくんのも不快。

私の目には排泄物にしか見えないアイツは“顔だけ”はいいらしい。



一度、社長のお使いが終わって2人で道を歩いてたときに逆ナンしてきたキャバ嬢がいた。



『笑った顔が八重歯見えて可愛い♡』っつって。


その嬢は八下のハードプレイのせいで歯を折られて右腕を骨折させられてた。ちなみに八重歯が見えて可愛い笑顔は自分が殺した相手の“命乞いがウケた”のを思い出しただけ。





ね?とんだクズでしょ。





今日も私はコールガールの仕事に勤しむ。老人たちを騙し、たまに八下の手伝いをする。八下は私の三個年上の先輩だが一番の古株だ。それを良いことに転職組の人を虐めて時々私を虐めるのが生きがい。うん。死んだほうが世のためになる。

今日は八下が来てない分、心なしか社内の雰囲気が穏やかに感じられた。

まず、コーヒーブレイクできるだけで心持ちが違う。



外を見る。

蝉が都会の焼けた電柱に張り付いて鳴いているのが聞こえる。

蝉の声って何だか苦しそうだよな、とふと思う。子孫を残す為に番の為に喚いて、その声は天敵すら誘き寄せて生きたまま食べられる。惨い死に方だ。嫌な死に方ランキングの上位に入ると思う。



虫は死に方を選べない。でも、死に方が選べないのは人間もそう。人間の中でも上位にいるやつしか死に方は選べないことがある。それがこの世界。

死すらも残酷に、唐突に、しかも思っても見ない形で与えられた人達を何度も見てきた。



私は、どうやって死ぬのかな…と考えることがある。



─そして、いつも思い出す。

初めて人を殺したあの瞬間を。





《あなたみたいなお嬢さんがどうしてこんなところにいらっしゃるの?》




背筋が伸びた綺麗な身なりの老婦人。

耳障りのいい穏やかな声。



あの人の顔が頭をよぎり、デスクの前でコーヒーを飲みながら目を閉じる。


じんわりとしたあの温かな記憶と憧憬、

そして、百足のように心を這い回る罪悪感と憎しみ。



それらを冷めた目で見つめてコーヒーの苦味を飲み下した。






彼女は、橘 和子(たちばな かずこ)と言った。


不思議そうな顔で引っ越しの挨拶がてらここに来た行程を尋ねられ、どう答えるべきか狼狽したのを覚えてる。



……こんなところ、と言う自覚はずっとあった。



高校出てからここにいて、“何の仕事”を手伝わされてるのか知っていた。

身寄りもない私が稼ぐにはこれしかないから人けのないボロアパートに住んでる、と言うだけ。


何でも何も無い。

それしかないから、それだけという話。




「えっと……」


「あっ、ごめんなさいね。いきなり失礼よね。私、下の階に越してきました。橘と申します。これ、良かったら」


「あ、どうも……。えと…高橋と言います」


「高橋さんね。下の名前を聞いても?」


「あや、です。文章の文で“あや”」


「素敵なお名前ね。私は“かずこ”平和の和に子供の子よ」




そう言って紙袋を差し出されて、戸惑いながら受け取った。物をもらい慣れてない私は、お礼よりもまず、“なんで?”が頭をよぎる。

……育ちのせいだ。



品の良さそうに笑うおばあさんは、私のことを“あやちゃん”と名前で呼んでくれる数少ない知人となった。

紙袋には引っ越し蕎麦が入ってた。

紙に包まれた上等そうな蕎麦だった。



このボロアパートに来る人は大抵訳ありだ。


大体は借金苦。

もしくは私みたいな会社の奴隷に成り下がった奴。 

そして、会社の駒として管理される老人たち。



和子さんは“管理される老人”の1人だった。



息子が借金を和子さんに背負わせて飛んだらしい。元々、大事に大事に、嫌なことは和子さんが片付けて、良い子良い子と育てたらとんだドラ息子になったそうな。そりぁそうならぁよ。とさめざめ話す和子さんに失笑したのを覚えてる。

旦那と言えば、長年連れ添った相手を離婚という形で尻尾切りした。

うーん、ドラ息子の遺伝子はここが始まりではないでしょうか?


和子さんの身なりや物腰、話し方を見ても育ちの良さが滲み出ていた。それと同時に世間知らずと甘ったれが同居した夢見がちなお嬢ちゃまという印象も受けた。落ちぶれてここに来たのに、見栄を張って高い蕎麦を渡してきたのも、それを物語ってた。



『私ね、それでも間違ったことはしてないと思ってるの。愛情をかければ回り回って自分に返ってくるんだから』



宗教みたいなセリフを本気で言ってのける人だった。



「あやちゃんは何でここにいるの?ほら、周りの方よりお若いから…なんでかと思って…」


「なんでって言われても、そうなるべくしてそうなったっていうか」


「まぁ!そんなことあるわけ無いでしょ?!こんな可愛くて若くて良い子が!」


「と言ってもなぁ……和子さんみたいに一般の人にはわかんない世界もあるんじゃないのかな」


「まぁ!それってどういう意味!?私が世間知らずと言いたいの?!」


「と、言いますか…未知の世界もあると言うか…」



だから、あなたは透明でキラキラした水槽からドブ沼のようなここに流されてきたわけであって。


……とは流石に言えず。




「あやちゃん。あやちゃんはとっても苦労したのね。若いのにこんなに苦労して……きっときっと、いつか報われる時が来るからね」




そう言って皺の寄った手に両手を握られて瞼が少し下がった澱みのない瞳に見つめられるのはウザかったけど嫌ではなかった。むしろ、その馬鹿みたいにまっすぐな視線は愚かにもこの私に微かな希望を抱かせた。


浮ついた世迷い言は、私の胸に小さな灯火を与え、頼りなくても、明るいそれは何より私の支えになりつつあった。






「おいブス。てめぇ、これまとめとけ。社長命令だ」


「……なんで私が…」


「やれっつってんだよ、ブスゴラ。それしかできることねぇんだからよ、てめえはよ」




八下は数少ない女で年下の私を何かと目の敵にしてきた。前に新しく入った可愛い顔のミコちゃんはこいつと付き合って3ヶ月で飛んだ。もしかしたら、八下に殺されたか、売られたか。

どちらにせよ、いい方向ではないのは確かだ。逆らっても、必要以上に関わってもこいつに関しては碌なことがない。


私は仕方なく、書類をエクセルに打ち込む作業を始める。八下は愉しそうに笑って無防備な頭をはたいてきた。


他の社員は私と八下に関わらないようしきりに電話をかけて、キーボードを打つ。助けなんてない。可愛いミコちゃんなら誰か助けてくれたのかな?なんて不毛なことも思わない、誰だって我が身が一番可愛いんだから。

こんなとき、海の底に沈んでいくような気になってくる。八下の罵声もおじさん達の営業電話も何もかも遠くで鳴っているような感覚。私はただ、ブリキの玩具のように仕事だけこなせばいい。そうすれば心を痛める必要もない。



だって、ここは海の底で、私は玩具なんだから。






「あやちゃん、もう嫌よ。こんな小屋みたいな汚いアパート、私、出ていきたい!」


「そうだね、和子さん」


「お風呂は小さいし、汚いし、壁は薄いし、おまけに変な声も聞こえるのよ!?壁だって…変なシミがついてるし、あからさまに色の違う壁紙貼ってるし……」


「そういうところだから」


「あやちゃん嫌よ私!薄気味悪いったら!もぉ!」


「どこも住めば都といいますか」


「嫌よもぉ!あやちゃんったら!」



和子さんとはほぼ毎日語り合うようになるほど仲良くなった。というか、殆どがこのボロアパートを半泣きになって罵倒する和子さんの慰労会になっていた。


私が部屋に着くタイミングで毎回突撃してくる和子さんはしばらく愚痴を吐いて、そして必ずこう締めくくる。



「あやちゃんは頑張り屋さんだから、すぐに良いことがあるからね」




悪いことを頑張っても結局は良いことはしてないわけだから報われるかは分からんけどね。それに、和子さんは演劇みたい!とはしゃいでるけど、和子さんだって地面師みたいなことさせられてるからね。



……言っても、上手く使われてるだけなんだよ、私たち。しかも悪いことに。

徳どころか、地獄行きの切符ばかり積んでるのよ。なんてね。



「そうだといいね、和子さん」



そう言って別れる。和子さんが毎回くれる小さい羊羹をゆっくり齧りながら咀嚼し、嚥下する。



羊羹は、和子さんの世迷い言みたいに甘い。


甘くて、甘くて、脳がもっとと渇望する。


もしかしたら和子さんが言うみたいに

……違うところに就職して、普通に暮らせたりするのかなぁ……



和子さんに毒された思考は脆い希望を抱かせる。それを全て自分の中に閉じ込めるように嘲笑いながらも、どこか捨てきれずに目を閉じた。




鼻腔を掠める、カビ臭い部屋。



住んでから気づいた血の跡のような壁のシミも、


視界の端に映る黒い影も、



夜中に聞こえる子供の足音も、

女のすすり泣く声も。


怪奇現象ではなく、全ては事象と思えばいい。蝉が鳴くように、彼らも活動してるだけ。



……キモいし、薄気味悪いけどさ。



その時だけは、いつか抜け出せるからと自分を騙しながら眠った。








「あやちゃん凄いなぁ」



営業成績表の前で下村さんに言われた。

くたびれたスーツを着た下村さんは眼鏡を掛け直して小太りのお腹を撫でるとまた頷く。



「あやちゃんったら凄いよ。あの社長が褒めてたよ?“あの年”で営業3位は凄いって」


「そ、うですか?」


「ウンウン。ま、褒められることしてる訳じゃないんだけどさ。何にしろ精を出した結果なんだから、たまには自分を労いなよね」


「あ、ども」




その年の夏。会社で営業3位になれた。

私の年にしては結構すごいことらしい。

と、言っても単に数をこなしただけなんだが。


「でも、八下さんには気をつけてね?あの人、嫉妬深いから」


「あ、大丈夫ですよ。私影薄いから」


「うーん、でも気をつけてよね!?ミコちゃんだって…」


「私、顔で男選ばないんで大丈夫っす」




下村さんは何か言いかけて、すぐに言葉を飲み込むようにして項垂れてた。

大丈夫だっての。アイツとの付き合いも会社の付き合いも長いから、身の振り方は分かってる。ようは目立たなければいいんだ。



だけど、アイツはそれ以降パッタリとうちの部署に来なくなった。誰かが「なんかやらかしたのか」と噂したが、普通に社長のそばにいた。いつもよりも後ろを引っ付いてたのが気になったけど。




「あやちゃんすごいね」



遊びに来ていた和子さんにも一応と思って報告したら、確信めいた笑顔と共にそう言われた。


お祝いしなくちゃね、と言われて近くのスーパーまで2人で歩いてパックのお寿司を食べた。

和子さんが多めに出してくれた、少しだけ高いやつ。



「ね、言ったでしょ?頑張ればいつか報われるのよ」


「そうなのかなぁ」


「そうよ。何度も言ってるでしょう?あやちゃんはこんなところにいる子じゃないの!ほら、パソコン使えるんだからもっといい企業に行けばいいじゃない」


「んな無茶な」




正直、満更でもなかった。

褒められることなんて無かったから、どんな形でも褒められて嬉しかった。


所詮、人の不幸の上に成り立ってる仕事。影では絶望した人の涙が滲みた少しばかりの汚い成功だ。

でも、和子さんの言う通り、頑張ると言うことにおいては、認められても良いのかもしれないと本気で思い始めていた。





ベッドに横になって、暗がりの中でパタパタと走る音と、今日は何だか楽しそうな鼻歌を歌ってるような声に呟いてみる。




「あのさぁ、わたしさぁ、ちょっと。

………凄いかも」



自分が言った言葉に恥ずかしくなって布団を頭の上までかけて蹲る。




パタパタと走る音は近くまで移動してきてベッドの周りから聞こえてきた。そして時々はしゃぐようにジャンプするような音も聞こえてくる。



音符が飛びそうな女の弾む歌声も、この時だけは口角が緩んだ。



下の階から『うるせぇよ!』とおっちゃんが叫ぶ声がする。

でも、それ、私じゃないから。




幼い子供の足音、

女の笑い声、


どれもが不可解なものだけど、何故だか今は一緒に喜んでくれてるみたいで。






そうだよね……


今日くらいは……



……今日だけは、喜んでもいいよね?





「くふふ…」



不気味極まりない部屋で、私は幸福に満ちた含み笑いをして眠りについたのだった。



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