彷徨いのルームチェック

「こちらがサク様のお部屋でございます」


 案内された部屋には、ステンドグラスのランプが温かく灯っていた。

 用意されたふかふかのルームシューズに履き替えていると、仄かに柑橘系の香りが漂ってきて、誘われる様に奥へ進む。


「こちらへ座り、おくつろぎください。すぐにお茶の用意をお持ちいたします」


 カナールがそう言って、包容力のありそうなシャンパンゴールドのソファに美咲を沈めた。

 うっとりする座り心地のソファの目前に、薔薇柄のカーテンが垂れている。床まで垂れているので、掃き出し窓が隠れているのかも。

 

―――あとでカーテンの向こうを見てみよう。


 美咲はそう思って、部屋のメインスペースに君臨するベッドを眺める。

 夜闇色のスエードに銀のボタンでタフティング(おうとつ)が施された、星空の様なヘッドボードのベッドだ。

 今すぐ身体を投げ出してしまいたくなる。

 

 しかし、それ以上に美咲の心を捉えたのは、壁や出窓、チェスト上に飾られた写真だった。

 写真は額に収められ、各々小さなライトに照らされている。

 美咲はソファから立ち上がって、写真たちを眺めた。

 額の中には素朴な風景や被写体が切り取られ、息づいている様に収まっていた。

 

「素敵」


 思わず出てしまった声は、妬みを含んだ低さだった。

 自分の声にハッとしていると、カナールがお茶の用意を持って現れた。

 彼は写真の前にいる美咲を見て、微笑むと教えてくれた。


「お待たせしました……ふふ、その写真たち、素晴らしいでしょう。腕の良い写真家の作品なんですよ」

「へぇ」


 見せかけの生返事をするものの、美咲は写真から目が離せない。

 

――――彼の言う通り、本当に良い写真。どこか懐かしいような……。

 

 紅茶の香りと共にカナールが隣に立って、写真を指さす。すらりと長くて筋張った色気のある指で、美咲はドキッとした。


「―――この陰影のとらえ方」

「……ええ」

「この構図の絶妙さも素晴らしい」

「そう……そうですね。それから、この写真は時間をとらえる事に成功しています」


 カナールは指を形の良い顎に添えて、写真を覗き込む。


「時間、ですか?」

「はい。移ろいの瞬間というか……」

「なるほどサク様は、カメラがお好きでしたね。ご自分でも撮影なさるのですか?」


 ボルドーの瞳を微笑ませて尋ねるカナールから、美咲は顔を逸らした。


「いいえ……もうやめたの」


 カナールは「そうですか」と、温かい声で返事をして紅茶を淹れる仕事に戻り、特に追求してこなかった。

 美咲はホッとして、彼が白い陶器のティーカップへ紅茶を注ぐ、優雅な仕草を眺めた。

 

「さぁ、紅茶をどうぞ。先ほどのウエルカムスイーツもお持ちしましたので、ごゆっくりお召し上がりください」


 カナールはそう言った後、閉じられていた薔薇柄カーテンを開けた。

 その先の光景に、美咲は目を見開く。

 

 予想通り、掃き出し窓―――床まで届く可憐なフランス窓があり、その先に小さなガーデンが、星の様に散らばる灯りで浮かび上がっていた。

 その幻想的な風景の片隅に、あるものを見つけて美咲はソファから腰を浮かす。


 平たく滑らかそうな白い敷石から、僅かに立ち上がった楕円の陶器の縁があり、その内側で水面が揺れていた。その表面からは、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。

 そばにはキャンドルの灯が、湯気と共に揺れていた。


「お風呂?」

恩恵泉フォンテーヌ・ドゥ・グラースでございます。一息つきましたら、こちらもお楽しみください」


 カナールがそう言って微笑んだ。

 その微笑みは、彼の背に広がる夕闇の天国と同じくらい蠱惑的だった。

 美咲は戸惑い、ため息を漏らしてソファへ深く沈み込んだ。


――――これは誰の為の夢なんだろう。私なんかが見ていい夢ではない事は確か。



 *


 座り心地の良いソファから見える、灯火が瞬くガーデン。しかも、ガーデンバス付き。

 お湯に浸かったら、きっとどんなに気持ちがいいだろう。

 そう思いはするものの、美咲はソワソワと眺めるだけだった。美咲はまるで、良く躾けられたおあずけ前の犬の様だ。

 

――――餌に飛びついたら最後、心をぶたれてしまう。


 美咲は幼い頃から、冷たい目線で見張られている様な感覚の中で育った。

 何かを得たり、楽しく笑った時や、興味を示すもの、好きだと言ったものに対して、母親が棘のある言葉を浴びせてくるのが日常だった。


(そんなに浮かれてみっともない)

(こんなにくだらないものを馬鹿馬鹿しい)


 その一言で、胸の奥に芽生えた喜びはたちまちしぼんでしまう。

 美咲の喜びは許されない事であり、美咲の好きなものは、嘲笑や怒りに値するもの――――それが、母から学んだ事だった。


 美咲は喜びの感情と好きな物事を隠すようになった。

 常につきまとう罪悪感と、心の奥で「私には許されない」と囁く声に苦しんだ。


 そんな美咲にとって、祖父から譲り受けたカメラは唯一の救いだった。

 祖父は無口な人だったが、カメラを渡すときに「好きなものを撮っていい」と言ってくれた。

 その言葉は、美咲にとって初めて「自由」を許された瞬間だった。

 幼い美咲がネガや現像代を手に入れられるのは、お年玉や誕生日のような特別な日だけ。

 空撮りしかできない美咲の姿に母は満足げで、美咲も「何を撮ったのか」詮索されなくて都合が良かった。


 美咲はこっそりと出かけ、レンズで光や色彩を追いかけた。花の咲く瞬間、夕暮れの川面、誰も気づかない路地の音――シャッターを切れば美咲の心に焼き付いた。現像できないそれらは、美咲の手には残らなかったけれど、その事が幼い美咲を罪悪感から守っていた。


 時は過ぎ、社会人になって母のいる実家から出ると、ネガの購入や現像が自由にできるようになった。


(お金の無駄だよ)

(下手な写真しか撮れないクセに)


 胸の中で冷たい声が響いていた。

 それは、母の声だったり、自分の声だったりした。

 だけど、光や色や移ろいに向かってシャッターを切りたい気持ちが抑えられなかった。


 罪悪感とせめぎ合っている内に、カメラを通じて祐二という恋人ができた。

 祐二は写真を撮る為に、国内外を問わず色々な場所へ連れて行ってくれた。

 新しい扉を開き、自分の趣味や感性を認めてくれる祐二と一緒にいる事で、美咲は自分が変われるような気がした。

 だから彼からプロポーズを受けた時は、天にも昇る気持ちだった。

「私でいる事を一生認めてくれる人がいる」そう思うと心強かった。

 なにより嬉しかったのは、実家が裕福で大企業に勤める祐二に怯んだ母の事だ。

 辛辣な口を閉ざし、探る様な目線を向けるだけになった母を見て、自由をようやく手に入れたと思った。

 

 しかし、婚約して将来の展望を話し合っていた時、希望に胸を膨らませた美咲から思わず零れた「いつか、いろんな所へ写真を撮りに行って、仕事にできたらいいな」という言葉を、祐二は一瞬驚いた様に見て、嘲るように鼻で笑い飛ばした。


「でももう、美咲は結婚するだろ。家庭を守るしっかりした奥さんになって、子供をもったら恥ずかしくない母親にならないと―――俺のために。なってくれるね?」


 美咲はその言葉を聞いて、結局幼い頃と同質の沼にはまっていたのだと悟った。


 

 コンコン、とノックの音が響いた。

 美咲は悪夢のような現実から、ハッと引き戻される。

 灯火を揺らし微かな水音を漂わせているガーデンが、美咲の心に寄り添うように優しく存在していた。

 

 美咲は何故だか泣きそうなほどの安堵を感じて、再度聞こえてきたノックの音へ震える声で返事を返した。


「はい」


 います。

 私はここにいるという返事が、ドアの向こうへ聞こえるだろうか?

 そう思うと堪らなく心配で、美咲はもう一度「はい」と、大きな声を上げる。


「サク様、もう半時ほどでディナーの準備が整います。いかがなさいますか?」


 カナールの深みのある声に、美咲は縋り付くように答えた。


「いただきます」

「かしこまりました。本館のディナーにドレスコードはございませんが、クローゼットにお召し物をご用意してあります。よろしければご利用ください」

「あ、は、はい。ありがとうございます」

「それではご用意ができましたら、先ほどの受付カウンターまでお越しください」

「わかりました」


 美咲は返事をして、自分の着ている服を見下ろす。

 ピンク色のニットアンサンブルとベージュ色の膝まである上品なスカート。きちんとした女性らしい、誰からも好感を持たれるファッションは、美咲の好みではなく、誰にも文句を言わせない鎧だった。

 アクセサリーがないのは寂しいが、このままでも十分だろう。

 それでも美咲は、好奇心からクローゼットを開けた。


* * *


 しばらくして……。


 用意された服の誘惑に乗り、おそるおそる袖を通す自分がいた。

 着終えると、姿見の中に自分を映して息を飲む。

 黒く艶めくシルクのパンツドレスに、銀のレース袖。足下にはルビー色のビジューが鮮烈に輝くヒール―――そこに立っていたのは、隠し、作り込んできた今までの自分こどもではなく、凜とした大人の女性だった。

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オーベルジュの魔女 梨鳥 ふるり @sihohuuka

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