戸惑いのチェック・イン

 建物の中に入ると、青年がお辞儀をして美咲を迎えた。

 グレーのシャツにワインレッドのベスト、黒いロングエプロンをこざっぱりと身につけていて、一目でウェイターだと分る恰好だ。

 ゆっくりと上げられた彼の顔を見て、美咲の心臓が跳ねる。

 入り口から入ってきた風に遊ばれて、少し乱れた鴨の羽色の髪。その艶やかな前髪の隙間から覗く深いボルドーの双眸が、美咲の姿を捉えて微笑んでいた。

 

―――い、美青年イケメン!!


「ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりと美食と恩恵泉フォンテーヌ・ドゥ・グラースをお楽しみくださいませ」


 柔らかく深みのある声が、美咲の耳にじんと響く。

 美青年に目を奪われながら、美咲は何とかちょっとだけ声を上げた。


「フォ……?」


 美青年の切れ長の目尻が、ふ、と柔和じゅうわに下がる。

 

「この土地の恩恵を受けた温かい泉でございます」

「ああ、温泉ですか?」


 美咲が手を打って言うと、青年は瞳の瞼をしみじみと閉じて、ふぅ、と、色っぽいため息を吐いた。


「時々お越しになるお客様の中に、同じ呼び方をされるお客様がおられます。しかし、当館のものはただ温かいだけではなく、様々な効能がございます。どうぞご期待ください」


―――それって温泉……よね?  


「温泉」という言い方が気に入らなかったらしい、と察して、美咲は黙って頷いた。

 温かい泉ではない―――これは、彼の反応を見るに、飽きるほどの、しかし彼の中で放置できない説明なのだろう。


「カナール、受付を済ませたいから、彼女をこちらへ通して」

 

 いつの間にか傍を離れていた少女の声が、玄関の奥にあるカウンターから聞こえた。

 彼女はカウンターの向こう側にまわり、広げた台帳に羽ペンを走らせていた。

 

「かしこまりました。ロトゥジア様」


 カナールと呼ばれた美青年はロトゥジアと呼んだ少女へ一礼して答えると、美咲へ微笑み、手のひらを滑らかに翻してカウンターへと示した。

 

 「こちらへどうぞ」


 彼の小さな仕草がいちいち優雅で魅力的な事に反して、美咲はギクシャクとカウンターへ近寄った。

 カナールに進められて、ベルベッドのカウンタースツールへ腰掛ける。

 少女――ロトゥジアが台帳を美咲の方へ開き、羽ペンを差し出した。


「ここに名前を書いて。あ、名前だけでいいから」


 ロトゥジアはそう言って、電話番号や住所を記入しようとする美咲を止め、羽ペンをヒョイと奪い取り、台帳の白いページに書かれた『石川美咲』という名前をフワッと撫でた。

 すると、文字がにゅうんと歪み、美咲の知らない文字に変わった。


「え!? どうなっているの!?」

「私の世界の文字に翻訳したの」

 

 台帳を覗き込む美咲を邪魔そうにしながら、ロトゥジアが文字を華奢な指でなぞって、美咲の名前を読んだ。


「イシ・カワ・ウツクシイ・サク」


 翻訳性能には、少し誤差があるみたいだ。

 美咲が訂正しようとする前に、ロトゥジアが「では、サク」と美咲を呼んだ。そして、手のひらの上に手品の様にカードの束を出現させる。

 驚く美咲の目の前で、ロトゥジアは小気味よい音を立ててカードをシャッフルし始めた。その手さばきに、美咲は思わず「わぁ」と子供の様な声を上げてしまった。

 

「すごい……手品師みたい」

「いいえ。私は魔女」


 ロトゥジアは何枚かカードを引いて、カードの絵柄を見ると、


「カナール、温かいオレンジジュースを」


 と、カナールへ命じた。


「かしこまりました」


 カナールが優雅にお辞儀をして、カウンター裏手へ入って行く。

 ロトゥジアが余裕のある微笑みを美咲へ向けた。


「好きでしょ、ホットオレンジ」

「……ええ、まぁ」


 美咲はオレンジジュースを熱々にして飲む事が好きだ。だけど、それを知られて胸がざわめく。

 途端、すぐ耳元で母親の嘲る声がした。


(冷たいジュースをわざわざ温めて飲むなんて)


 美咲は身体を強ばらせて、目を閉じ声が消えるまで我慢する。それが一番良いから。


「重傷ね」

 

 ロトゥジアが呟いた。

 美咲は目を開け、「え?」と問い返したけれど、ロトゥジアは美咲の方を見ずに、カウンターに何種類ものカードを裏向きにして並べていた。


「今からサクを『視る』から、暴かれたくないカードがあったら言って。ただ、食べると具合が悪くなる食材とかは別ね」

「えっと、甲殻類が駄目です」


 自分で言った方が早いのでは。そう思いながら美咲が伝えると、ロトゥジアは「ふぅん」と生返事をして、茶色の背面に白いお皿の描かれたカード達を捲る。

 エビとカニの絵が出た。


「えー、すごい」


 次は、桃の絵。

 

「サクは、桃も少し合わないみたい」

「……そういえば、喉が痒くなるかも」


 でも、そういうちょっとした症状で騒いだら、迷惑をかけてしまう。そう思って我慢していた。すぐに通り過ぎる不快だったし……そうすると、「そういえば」になるのだ。


―――「大袈裟」なんて言われちゃうの嫌だし。


 ロトゥジアは美咲の自覚に頷いて、カードを捲る。


「あと、 アルコールも苦手ね」

「あ……でも、飲めなくはなくて……」

「どうしてもというなら他所で好きにすればいいレベルだけど、うちでは出さないから安心して」

「ありがとう……」


 自分で伝えた方が早いなんて思っていた美咲は、自分への自覚のなさに少し驚く。


「私のカードの方が正確でしょ?」


 ロトゥジアが先ほどの美咲の心の声を見透かした様に言ったので、素直に頷いた。

「本物の魔女なの?」と聞こうとした所へ、カナールがカウンター奥から現れた。


「お待たせいたしました。ウェルカムドリンクです。お好きなトッピングでどうぞ」


 カナールは深みのある声でそう言うと、トレーに乗ったホットオレンジを美咲の前に置いてくれた。

 金色の取手をした透明ガラスのラウンドマグに、明るい色のホットオレンジジュースがなみなみと満たされている。

 飲み口に半月切りのオレンジが掛かっていて、蜂蜜とシナモン、そして、赤ワインの入った小さなシロップピッチャーが並んでいた。さらに、一口サイズの焼き菓子まである。

 美咲は小さな歓声をあげて、カナールへお礼を言った。


「美味しそう。いただきます」 

「アルコールは引き取るわね」


 ロトゥジアはそう言って、赤ワインの入った小さなピッチャーを抓み、美咲の方へちょっと掲げた後、煽った。


「んふ、おいし」


 少女がロータスピンクの瞳を猫の様に細め、小さな舌でペロリと唇を舐めて微笑むので、美咲もホットオレンジを一口啜る。

 優しい甘酸っぱさと、ホカホカと立つ爽やかでホッとする香りに満たされて、じんわり心が温まる。


「おいしい……」


 目の前が湯気でキラキラ潤み、胸の中が甘く絞られる様だった。

 

「次はサクの好みを視よう」


 少女がそう言って、綺麗に輪を描いて並べられたカードをめくり始める。


「ツナサンド、焼き肉、激辛料理……カメラ、大きなリュックサック、スニーカー、緩いズボン……サク、どうしたの?」


 ロトゥジアが美咲の方へ顔を上げ、怪訝そうに首を傾げた。

 美咲は両手で顔を覆っていた。

 好きなものを言い当てられる度に息苦しくなって、気分が悪くなってしまったのだ。


「ごめんなさい……好きな物がたくさんあって」


 ロトゥジアはキョトンと目を見開き、カナールと顔を見合わせる。

 カナールは思案げな顔で「修道女シスター様では?」と答えた。

 ロトゥジアは別に並べられたカードをめくり、首を振った。

 

「いいや、銀行員みたい」

「ヒッ、職業まで!?」

「あなたを視るって言ったでしょ。知りたいの」

「なんで、なんで……?」


 このままでは丸裸にされそうだ。一体目的は何なのだろう?

 動揺し出した美咲に、ロトゥジアが困った様に言った。


「サクを喜ばせたいだけ」

「私を? なぜ?」

「ここはオーベルジュで、人生に喜びを添える場所だから。最初に言った通り、暴かれたくないカードは捲らないから安心して。不愉快にさせたいわけじゃないの」


 カナールが美咲へ寄り添うように傍に来て、心配そうに顔を覗き込んだ。


「顔色が良くありませんね。食品のタブーは伺えましたし、もうお部屋へご案内さしあげましょう」

「そうして。気の晴れるお茶でも淹れてあげて」

「かしこまりました。サク様、歩けますか? よろしければお抱えいたしますが」


 美咲は慌てて立ち上がり、「大丈夫です」と答えた。


「では、こちらへどうぞ」


 カナールは気遣わしげに微笑み、静かに一礼をして、館の奥へと続く廊下へ片手を差し伸べた。

 年期の入った漆喰の壁と、艶やかに磨かれた木の廊下だ。天井に釣られた真鍮枠のランタンの柔らかな灯りで、飴色に揺らいでいる様に見えた。

 その優しい明るさは、美咲には安全な逃げ道の様に見えた。


「ごゆっくり」


 声に振り返ると、ロトゥジアが美咲を見送っていた。

 

「また、ディナーで」


 ロトゥジアはそう言って、微かに、本当に微かに、蓮華色の瞳を微笑ませた。

 まるで何かを約束する様に。

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